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「消費社会の神話と構造」を読んで①

ジャン・ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」を読んだメモ・所感などです。
全体的には難しい表現などが多く、途中では頭に一切入ってこないような章もあったが、ところどころに目から鱗というか、そんな考え方があったのか!?と思うような強烈に惹かれる文章もあった。自分の中で、どう咀嚼して、どう整理すれば良いのか、が少し悩ましいです。。

・成長による成長への治療。
・病気との戦いや、死の後退(高齢化)は豊かさの一面、消費の要請の1つである。麻薬やアルコール消費、軍事予算までもがすべて経済成長であり、したがって豊かさなのである。
・社会は何よりもまず経済成長に奉仕するよう定められた社会的投資(教育、研究、厚生)への国民総生産からの再分配を増大させることによって、経済成長の社会的費用を償却せざるを得ない。-本文より抜粋

現代の私たちの資本主義社会は、本来は私たちを豊かに、幸せにするため、がスタート地点だと思うのですが、豊かにはなったかもしれないが、それと幸せというものには繋がっていないように感じます。
軍事関連の商品を使って、紛争や戦争でそれを消費して、また作っていく。
体に害のある食べ物などがあり、それを食べすぎて病気になり、病院にいって治療をする。どちらも、経済としては成長していきます。

再分配などでの弱者救済などはするものの、それはあくまで「したいからする」のではなく「せざるを得ない」からするわけで、経済成長というものが何よりも優先されてしまっているのだと感じます。
これからは渋沢栄一の「論語と算盤」の考えが必要じゃないでしょうか。

・貴族階級は無駄遣い的出費を行うことによって、自己の優越性を示した。豊かさとは、結局のところ浪費のなかでのみ意味を持つのだろうか。

豊かさとは浪費のなかでのみ意味を持つのか、という投げかけはウロコがポロしでした。全員が平等で物質的に豊かになる、というのは幻想にすぎないのでしょうか。。。

・豊かさがひとつの価値となるためには、十分な豊かさでなく、有り余る豊かさが必要で、必要と余分の十分な差異が必要となる。
・システムが一定のひずみ率のまわりに安定していること、つまり絶対量がどうであろうとも、体系的不平等を含みつつ安定している。

アリ社会では、8割ぐらいが働かないアリがいるとか、それが蟻社会には重要だと、聞いたことがあるがそれを思い出しました。体系的不平等を含みつつ、安定していく。。いくら社会全体の富が増えても、その中での格差というのはなくならないのが、現在の社会システムということでしょうか、、、

実を言うと、「豊かな社会」も「貧しい社会」も未だかつて存在したことはない、今もない。

というのは、どんな形態の社会であろうと、生産された財と自由になる富の量がどれほどであろうとも、あらゆる社会は構造的過剰と構造的窮乏とに同時に結びついているからである。

過剰とは、神の取り分、生贄の部分であり、あるいはぜいたくな支出、剰余価値、経済的利潤、見せびらかし的予算となるべきものである。

いずれにせよ、ある社会の富の構造を決定するのは、あらかじめ差し引かれたぜいたくの部分だが、この部分は常に特権的少数者の取り分であって、
カーストや階級の特権を再生産する働きをしている。社会学的な平面では、均衡などは存在しない。

富の総量という意味では、過去よりも豊かな社会と言えるのでしょうが、その社会の中では、構造的に過剰と窮乏があるから、豊かでも貧しいのでもない。なるほど、、、日本で絶対的貧困の人はいないだろうが、相対的貧困率は高くなっているし、それはいくら日本が今後経済成長して豊かになっても、多少の上下はあっても変わらないのでしょうか。。。

富がかつて持っていた本質的利点(権力、享受、権威、尊敬)をもはやもたらさなくなっている。

地主と株主の権力は終わりを告げ、今や権力を行使するのは、組織化されたエキスパートや技術者、さらに知識人や学者なのだ。
見せびらかし的な消費は終わった。

平等がもはや現実的重要性を持たなくなった、価値基準はもっと別のところにある。平等な所得か否かということは、もう「不平等」の根本規定ではない。
消費のやり方、スタイルによって、自分の地位をいっそう高めている。
見せびらかしから、超見せびらかし的な慎みへ、量を見せびらかすことから差をつけることへ、金銭から教養へと移行することによって、
彼は自己の特権を絶対的に維持するのである。

この本は1979年の本ですが、あれ?今書いたのかな、と思うような点もありました。「見せびらかしから、超見せびらかし的な慎みへ」などは、昔は一部の人しか持っていなかったハイブランドが、多くの人が持つようになると、その他大勢と一緒であるのは嫌だから、まだ知られていないマイナーなハイブランドへ、とか、教養へとか、なんとかして他の階級と差異を作ろうとするのは、なんか分かります。。。完全主観で図で表してみます。

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金銭はヒエラルキー上の特権や、権力的、文化的特権へと絶えず変身するものだからである。

都市と工業地帯の拡張によって、新しい希少性が姿を表す。空間と時間、きれいな空気、緑地、水、静けさ、かつてはただでふんだんに手に入ったいくつかの財は、特権階級にしか手の届かない贅沢品になり、その一方で人工的に製造される財やサービスが大量に提供されている。

ニセコがオーストラリア人から雪質の良さで評判になり、富裕層向けの宿などが増えたり、再開発された、といったのも上記の例になると思います。

ひずみと不平等は消滅したのではなく、移転したのである。
消費が万人のものとなったときには、それはもはやなんの意味ももたなくなっているかもしれない。

「きれいな空気への権利」の意味するものは、自然の財産としてのきれいな空気の消滅とその商品の地位への移行、およびその不平等な社会的再分配という事実である。

メモメモ。

職業上のあるいは文化面での渇望よりははるかに柔軟性を持つ(物質または文化的な)純粋の消費願望は、ある種の階級にとっては、上の階層にのし上がれなかったと言う事実を埋め合わせている。

消費衝動は垂直的な社会階梯における満たされない欲求を埋めあわせることができるかもしれない。

こうして(特に下層階級の)「超消費」願望は、地位を求める要求の表現であると同時に、この要求の失敗を体験的に示すことになるだろう。

お金はあるけど上の階級に上がれない!(日本の場合は、今は身分制度ないと思うので、教養や文化的知識がないから上がれない!ということかな)
京都だと、何百年の歴史がある老舗しか入れない会などがあるらしいけど、それなんかはまさにそれですかね。(お金じゃどうしようもできない区別)
全身ハイブランドで揃えているお金持ちで、超消費している人は、そういった階級になれなかったというルサンチマン(やっかみや嫉妬)を、爆買いというもので晴らしているということでしょうか。
まさに、ハイブランドを爆買いする中国人などにも、こういったものが当てはまるのかなと思いました。

産業の集中が常に財の生産の増大をもたらすのと同様に、都市への人口集中もまた欲求の限りない発生をもたらす。

今後、世界的には都市への集中が進むため、より欲求が増えていきますね。

成長社会は豊かな社会とは正反対の社会として定義されることになる。競争心を掻き立てる欲求と生産との間の恒常的なこの緊張、すなわち貧乏性的緊張である「心理的窮乏化」のおかげで、生産の秩序は自分に十分引き受けられる欲求だけを生じさせ、満足させるように振る舞うのである。

経済成長の秩序においては、この論理に従えば自立的な欲求は存在しないし、また存在できない。存在するのは成長の欲求だけである。

欲求があるから、生産される、のではなく、生産するために欲求を引き起こす。経済成長最優先でいる現代社会においては、「自分がこれが欲しい」と自立的に思っているようで、実際は「これが欲しい、と自立的に思っているように」動かされている、、、、まあ、確かにこれ以上便利に、これ以上必要なもの、は無いと思うのけど、「欲求が作られている」というがこの社会か。。

また成長の社会は、財を生産する社会である前に、この社会は特権を生産する社会である。そして、特権と貧困の間には、社会学的に規定しうる必然的な関係が存在する。
どんな社会においても貧困を伴わない特権は存在しない。両者は構造的に結びついている。

社会的な惰性は自然の慣性とは違って、ひずみと差別と特権にたどりつく。
豊かさは差別そのものの関数なのだから、豊かさが差別をなくすことなどはできるはずもない。

社会学者から見ると、必然的に特権と貧困が生まれる、というのは重い現実だと感じる一方で、インターネットに全ての人がアクセスでき、シェアリングエコノミーといった経済活動がより増えてきた場合には、どういった未来が作れるのか?ということには興味があります。

かなり長くなってきたので、2回に分けます。

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