青とは何か?と問える余裕

どうして空は青いのかとか
青ってそもそも何かとか
「見る」と「観る」の違いは何かとか
はたまた何のために生きているのかとか
そんな「どうでもいいこと」に
思いを巡らせるほどの余裕を
この社会は与えてはくれない。

そんなことを考える前に
片付けなければいけない仕事や宿題が
目の前にたくさんあるからなのか。
いや、そもそもネットで調べれば
いつだって答えが手に入ると
そう思うからだろうか。
それともそんなことを考えている暇がないと
言われるだろうか。
はたまたそんなこと考えても
「意味が無いのか」。

物事には意味がなくてはいけない。
役に立たなければいけない。
あらゆることにそんな前提があるように思う。
結論から言えば、ぼくはその考えが嫌いだ。
しかしこれに対してまともに反論すると
どうしても自分が嫌う土俵に立って
話をしなければいけなくなる。
なぜ嫌いなのか?
という理由の意味が生まれてしまうからだ。

また結論から言う。
「物事に意味が無いといけない」
「役に立たなければいけない」
という前提を取り去ると
とても豊かになるとぼくは考える。
だがその理由を言うことはできない。
言いたくない。
なぜかは上記の通りだ。

ぼくが敬愛する動物学者の青木淳一先生という方がいらっしゃる。
ダニの研究をなさっている先生だ。
こんなエピソードを聞いたことがある。
ダニを研究して何になるのか
という目に晒されてきた。
なんの役にも立つわけでなく
ただひたすらに研究しておられた。
ある日、そのダニの研究が
「森の健康度を表す指標」に使えることがわかった。
ある森の土壌にあるダニがどれだけいるか
ということで、その森の健康度を測るという画期的なものだった。

あなたはこれを聞いて何を思うだろうか。
役に立たないことでもいつかは日の目を見る
だから好きなことは続けるべきだ。
そんなふうに思うだろうか。
ぼくはそうは思いたくない。
そう思ってしまったら、
結局物事は何かの役に立たなければいけない
という前提を賛美していることになってしまう。

青木先生は、「役に立たないような研究があってもいいじゃないか」
とおっしゃっていた。
役に立とうが立たなかろうが。
意味があろうがなかろうが。
いいじゃないか。
そんなふうにぼくはなりたい。
恥ずかしげもなく、青とはなにかと
問える余裕を
ぼくはもっていたい。


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