野球の神様による筋書きのないドラマの筋書き 残穢
“いくら練習しようとも納得のいくプレーが出来ない”
“監督の発表する先発メンバーの中に私の名前が無い”
“自分が立っているのは二軍の練習場”
そのような夢を見ることがあります。この悪夢の原因は小学生時代にさかのぼります。
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小学生の頃から野球をやっていた私は地元のチームではピッチャーで4番でキャプテンでした。狭い地域にいくつかの少年チームが存在する中で私達は最弱のレッテルを貼られていました。そんな弱小チームを一人で牽引しているのだという自負と同時にうぬぼれが私にはあったように思います。
中学にあがってからはそうはなりませんでした。入学すると同時に野球部に入部します。ここ数年は能力の高い生徒が集う傾向にあったらしいのです。試合前に監督が必ず言う言葉がありました。
「コールドで勝て」と。コールドゲームとは最終回を待たずして点差が開いた試合を途中で打ち切る事を言います。それほどツブ揃いの年代だったのです。実際に負け知らずのチームではありました。
その負け知らずの野球部に在籍した3年間、私は補欠というポジションに甘んじます。試合において私の出番はまるでありませんでした。決して能力が低いわけでも努力を怠ったわけでもありません。単純に他のメンバーの能力の方が高かったのです。少年ジャンプに掲載された黒子のバスケで言うところの『キセキの世代(天才達の象徴)』そういう連中が偶然にも集ってしまったのです。
器用だ、うまいと言われて思い上がっていたのかもしれません。そのおごりが何倍もの屈辱となって跳ね返ってきます。私は自信もプライドも瓦解してしまいました。
私は報われなかった3年間の記憶を消し去ると同時に、野球との関わりを断つ事にしました。
高校入学の為に勉学に励むことはいささかもありませんでした。入れるところであればどこでもよかったのです。将来、何の職業につきたいかなどと考えた事は一度もありませんでした。いわゆる普通科じゃない方の高校へなんとなく入学したのです。
入学してすぐのことです。野球部の試合を応援する為に人員を募るというのです。本来その類の仕事は応援団部が担うものです。しかし人気の無いそのクラブは既に廃部となっていたのです。その為、名目上は任意ではありましたが、実質半強制的に各学年から人員を確保するのです。普通科じゃない方の生徒にそのような自己犠牲的な催しに自ら参加したいなどと言う危篤な人間は皆無であります。選任方法は当然のごとくクジ引きとなります。野球から遠ざかりたい人間がよもや当選するとは思えませんでしたが実際にはそうはなりませんでした。野球と私との縁はまだ続くことになるのです。
“応援委員会”とは、その優しそうな名称とは裏腹に、とても任意での参加とは思えないシロモノでありました。果たして、練習場は元応援団部員という肩書にモノを言わせた上級生によるうさばらしの場と化したのです。挨拶の仕方から型の練習まで気に入らなければすぐに怒号が飛んできます。さすがに殴る蹴るの暴行は無いまでも、胸倉をつかむ場面は幾度か目撃してしまいます。
試合当日はテレビ局が球場まで取材に来ていました。私は上級生によって頭から水をかけられるシーンを地元のニュースで放送されてしまいます。しかし幸いにも一回戦で敗退した野球部に私は心から感謝致しました。
2学年にあがると野球との繋がりは切れたかに思えました。この期間特に野球に関わった記憶はありません。応援委員のくじ引きにも見事漏れました。しかし何事に於いても揺り戻しはやってくるのです。
3年の時に何の因果か野球部が県大会で優勝してしまったのです。学校創設以来の快挙でした。隣のクラスに私と同じ中学で野球部出身のZという男がいました。彼も補欠ではありましたが根っからの野球好きなのでしょう。レギュラーであろうとなかろうとZにとって野球が出来る環境であればそれで良しとしたのかもしれません。彼は高校においても野球を続けていましたがレギュラーになることはありませんでした。しかし神様は野球を愛する者を見捨てなかったのです。Zにはこれから生涯、甲子園経験者という肩書きが付いて回るのですから。私は別段羨ましいとは思いませんでした。中学を卒業後、甲子園を夢見て各高校の野球部へと散って行った才有るチームメイト達の心情を思っただけです。夢破れた彼等の心の内を察すれば気の毒ではあります。彼等の想いをたまたまZが引き継いだ、ただそれだけの話なのです。
試合日程が決まると同時に学校側も応援ツアーの参加者を募りました。クラスメイトが
「野球やってたんやろ。応援行かんのか」と、いかにも舞い上がった調子で言ってきました。
私は野球というものから足を洗ったのです。野球が楽しいのは身をもって知っています。しかし自分がプレーするのであればともかく、何故人のプレーを応援しなければいけないのでしょう。
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校内では野球部が一回戦を勝ち上がったニュースで持ちきりでした。引き続き応援ツアーの募集をしています。そんな矢先、クラスは異なりましたが同郷のAがやってきました。目じりの下がったニヤケ顔で言うのです。
「甲子園行くぞ」
彼もまた中学時代は同じ野球部として共に過ごした仲間です。しかしAも私と同じく補欠でした。彼とはなぜか馬が合いました。同じ補欠という立場もあってかよく話をしたものです。よくしたのが女の話。いや、他にはなかったというほうが正しいかもしれません。隠れていっしょにタバコも吸いました。酒も飲みました。不良になる覚悟のまだ出来ていない、言うなれば田舎の不良っぽい少年です。その彼が何で今更甲子園なんぞに行きたがるのか?動機は単純で不純なものでした。取得したばかりの自動車免許で車を乗り回したいだけの話です。野球部の応援にかこつけて車で甲子園に乗り込もうという計画なのです。普通車の免許を取ると同時に車も買ったBという男がいました。彼は既に計画に巻き込まれておりましたが、これまた同郷の不良っぽい少年であります。
普通科じゃない方の生徒は18歳までバイクを狂ったように乗り回します。そして18になった途端、自分に課せられた命題のごとく自動車免許の取得に専念するのです。それこそ全身全霊をかけて。お金さえ出せば100%取得できる「自動車学校に通う」という選択肢をとる輩はほぼ皆無であります。皆、直接試験場へ向かうのです。そうは言っても全くの素人が車を扱えるわけがありません。自分の回りに車を持っている者がいればどのような手段を使ってでもそれを借りて秘密練習をするのです。そして試験場へと突撃する。間違いなく落ちます。2度目も落ちます。恐ろしいもので人間その気になれば3度目で受かる者が出てきます。3年生にもなると教室内の話題はもはやそれ一色でありました。
学校生活に微塵の刺激も感じていなかった私はその話に乗ることになります。甲子園までどれくらいの距離があるのかは知りません。どれほどの時間がかかるのかもわかりません。そんな事は運転手に任せておけばいいのです。免許を持っていない私はおとなしく座っていればいいのですから。集まったメンバーは5名。CとDはクラスも課も異なりましたが皆同郷であります。セリカの後部座席に3人座るとさすがに窮屈です。高速代、ガソリン代を安くあげるための要員であることはわかっていましたが最後に誘われた私はおとなしく後部中央に座ることにしました。
どれくらい走行したのかは記憶にありません。やがて”甲子園”という標識が目に入ってきました。地図から視線を上げたAが目的地に近づいた事を皆に知らせます。Bにスピードを落とすよう言いました。
「このホテルで聞いてみるか」
私は思いました。ここに泊まるのではないのか?道でも聞くのか?と。
「いっしょに来い」
ビジネスホテルの前に横付けした車から私は無理やり降ろされるとAと受け付けに向かいました。Aが尋ねます。
「5人泊まれる?」
絶句でありました。私は今知ることになったのです。自分達は今夜泊まるあてもないまま出発していたのだと。あきれると同時に要領の良さではレギュラー級のAが宿の手配もしていないことに驚きました。「高校野球真只中」「甲子園球場の目の前」「迫りくる夕闇」空きなどあろうはずがありません。フロント係りは値踏みをするように私達を見ました。その視線でやっと気が付いたのです。私の容姿は他の4人と比べるとおとなしめであります。Aのようなアロハシャツは着ていません。シャツの裾もしっかりズボンの中に入れています。その私を同伴することで相手に不信感をいだかせない為の作戦だったのです。Aは段取りの良さとは裏腹に沖縄で言う「ナンクルナイサー」が同居する男だったのです。しかし私の容姿はまるで役に立ちませんでした。
「満室です」
Aは踵をかえすと、おまえが悪いのだと言わんばかりに舌打ちをして車に乗り込みました。チッ、という舌打ちの後には「この役立たず」という言葉が潜んでいたように思います。車内に戻るなり私は事の成り行きを皆に伝えました。「はあっ?」と言う一同の言葉で誰も知らされていなかった事が判明します。驚くやらあきれるやらあわてるやらでありました。Aの思いつきと勢いだけで私達はここにいるのです。Aは「仕方ないだろ。予約取れんかったんだから」の一言で片づけてしまいました。
現在のようにスマホやナビゲーションがあるわけではありません。ただひたすらグルグルと見知らぬ土地を徘徊するうちに車は細い路地へと迷い込んでしまいます。私達より少し上の年代でしょうか、二人の兄ちゃん達がキャッチボールをしていました。Aが窓を開けて唐突に言い放ちます。
「どっか泊まれるとこ知らんか?」
初対面の相手に対する尋ね方ではありませんでした。ボールを投げようとして手を止めた兄ちゃんが意味不明の笑みを浮かべて近寄って来ます。
「泊まるとこ無いんか。ならウチに来い。泊めたるで」
その言葉にどのような意味が含まれていたのかはわかりませんが車内に得体の知れない恐怖のようなものが走りました。
「逃げろっ」Aの言葉に呼応してBがアクセルを吹かします。訳もわからずやみくもに走りました。やがて追手のないことに安堵したAがため息まじりに言うのです。
「ふう、やっぱ関西は怖いわ」
宿の確保もせずにここまで引っ張って来たお前の方が怖いわ、と一同は思ったに違いありません。
しかし若さの勢いというのは神様にも届くらしいのです。奇跡的に旅館が見つかったのです。急な客に旅館側も食事を用意できるはずもなく私達はお菓子やら何やらで腹を満たします。ゲンキンなもので空腹が紛れると次の欲求が芽生えてきました。道中後ろに座っていただけの私が言います。
「せっかく来たんだから外へ遊びに出るか」
ヒンシュクを買ったことに気が付きましたが遅かりしです。皆疲れてナメクジのようにグッタリしているのです。急に元気になった私に皆の冷ややかな視線が刺さります。私は反省すると同時にここにきてやおら高揚する自分を抑えて眠ることとなりました。
翌朝早くに目が覚めました。昔から早起きは全く苦になりません。疲れが取れていないナメクジ達を無理やり起こします。今日はわが校の2回戦なのですから。対戦相手は近畿地方では名の通った強豪校です。旅館の仲居さんが出発前に言った言葉が耳に残ります。
「まあ野球は何が起こるかわからへんから。」
既に負けが決まっているかのような言い方です。別に私達にとって勝敗はどうでもいいことではありましたが。
球場に着くとAが学年主任の英語教師を目ざとく見つけます。入場券を手に入れてくると言うのです。勝手に応援ツアー外で押しかけてきてタダで観戦しようということなのです。しばらくするとAが小走りで帰ってきました。ニヤケ顔に緊張感が貼りついています。チケットは手に入れたものの、ここまでどうやって来たのか問い詰められて逃げて来たと言うのです。
チケットを手にした私達は足早に散会しました。球場内で落ち合うと母校のアルプス席からは距離を置いて観戦しました。観戦と言えば聞こえはいいですが相手応援席のチアリーダーしか見ていなかったように思います。いっしょに校歌を歌うわけでもなくコブシを振り上げて声援を送るわけでもありません。もともと母校愛に目覚めて甲子園までやってきたわけではないのですから。ただ車を乗り回したいだけの話でしたから。
幸いにも教師による追及の手は及んできませんでした。しかし私達は試合終了のサイレンを聞くことなく球場を後にします。結果は旅館の仲居さんの見立て通りでありました。私達はひとしきり街を車で徘徊したあと、また長い帰路の旅路につくことになるのです。
帰って来ても何の感慨も湧きませんでした。非日常を味わいたかっただけなのですから。自分達だけで遠出をしたという達成感はわずかにありました。
ただ、捨てたハズの野球という残穢だけが漂っておりました。
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どれくらいの月日がたったのか数えたこともありません。中学まで続けた野球から逃げようとした挙句、何の因果か進学した学校が甲子園に出場し、不本意ながらも応援にまで関わったという事実から。はるか昔の記憶ではありますが消し去ろうとしても心の奥底でうっすらと今でも確かに潜んでいるのです。
ときおり夢の中にいくらあがいても報われない自分が出てきます。これほど時がたっているにも関わらず野球から逃げた事に対する自責の念が夢という形で現れるのでしょうか。ならば(あのまま野球を続けていたらどうなっていたのか、甲子園経験者として看板を背負い社会人野球に活躍の場を求めていたのだろうか)と妄想が膨らみます。
今となっては(決して野球から逃げたわけではない、卒業しただけなのだ)と、そう自分に思い込ませるしかありません。
社会人となり家庭も持ちました。休日になんとなく点けたテレビでは高校野球を実況しています。上がった内野フライ。わざと落球すればダブルプレーが取れる場面であります。うかつにも野手が捕球してしまいました。誰に向かって解説するでもなく自分だったらこうしていたのにと呟いています。現在は野球とのしがらみはこの程度になりました。わずかに、バッテイングセンターに付き合った事はありますが深くかかわる事はなくなりました。ようやく野球という呪縛から解放されたのかもしれません。
そして私にも孫が生まれました。目に入れても痛くない、という言葉の意味を痛切に感じています。本人が望むのであれば何でも叶えてやりたいとさえ思います。娘夫婦が暮らす街とはいささか距離がありますが行って行けないほどでもありません。何かしらの理由をつけて孫の顔を見る為だけに出向いたこともあります。孫の近況に触れた内容のメールが届きました。よく散歩に行く運動公園のフェンスにかじりついて離れないと言うのです。 どうやら少年野球に興味があるらしいのです。
完
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