長い長い冬が終わった
思い返せば、あの時に私は冬眠をしていたのだと思う。
人間が冬眠を必要とするのか否か、その疑問に対して私はこの身を持って”必要である”と答えよう。冬眠という言葉を使わず、たとえばこれをよくある言葉に置き換えるなら「人生の夏休み」といったところであろうか。もしくは「モラトリアム」なんて言ってもいい。実際に私は、社会人をしながら大学生をしており、上で言った冬眠期における私の肩書は大学生のみであったし、ただ毎日たくさん寝て、起きて、美術学生の頃から続けている創作活動をリハビリ的にしていた。
それは2023年11月から翌年2024年4月ごろのことである。
元から私は病気がちである。虚弱体質であり、精神的なストレスがすぐ体に出て、持病もいろいろある。しかし極端に気力が強いためにそれなりに生きて来たのだが、2023年夏頃から持病のひとつが悪化した。
私の人生の一片とも言える演劇を見て駆け回る生活はできなくなり、かといって大学生らしく勉強をするでもなく、仕事にも行かずに家の中で過ごすようになったのである。ついでに食事もあまり摂らなかった。その様はまさしく冬眠であろう。
この生活は2024年4月ごろに回復へと向かう。持病の症状も5月ごろにはおさまり、6月にはもうほとんど元の自分に戻っていた。そう、それはちょうど『冬単(MANKAI STAGE『A3!』ACT2! ~WINTER 2024~)』が始まった季節である。それまで無味乾燥といった私の生活が急に華やいだのは、4月14日に東京公演千秋楽のライブ配信を見たからであった。
夢みたいな話
『MANKAI STAGE『A3!』ACT2! ~WINTER 2024~』とは私にとって夢が現実となった存在であった。
私は『A3!』というゲームを知った時からずっと、その物語の中に登場する”オーガスト”という存在と彼が家族と呼んだ御影密、卯木千景という彼ら三人の家族のことをつぶさに考えていた。
この物語の中で、オーガストというキャラクターは自身の命と引き換えと言っても差し支えないやり方で、御影密と卯木千景を生かす選択をする。『A3!』という物語が開始した時点(正確には、御影密の物語が始まった時点)で、オーガストというキャラクターはもう既にこの世にはいないのである。
物語の観測者である我々は、オーガストが生かした御影密と卯木千景という二人のキャラクターの知覚を通してのみ、オーガストを知ることになる。つまりオーガストの心情というものは物語の中で、彼の口から語られることは決してないのである。
『MANKAI STAGE『A3!』ACT2! ~WINTER 2024~』は、『A3!』において公開された『剣に死す。』『Risky Game』各公演イベントのストーリーを舞台化したものである。この『Risky Game』というのが、先に述べたオーガスト、御影密、卯木千景の三人家族を中心に描いた物語なのである。
『Risky Game』の舞台化にあたって、オーガスト役として和田琢磨の続投が発表された。しかもそれは『MANKAI STAGE『A3!』ACT2! ~SPRING 2022〜』の時のように声のみの出演ではなく、和田琢磨がオーガストとして舞台の上に立つというものである。
さて、『MANKAI STAGE『A3!』ACT2! ~SPRING 2022〜』を見て、このオーガストというキャラクターを通して和田琢磨のことを好きになった私にとって、これは一大ニュースであろう。まさしくそうなのである。しかしこの発表があった時期とは、まさしく私が冬眠していた時期なのである。
普段の私であれば取り得る選択肢とは行ける公演すべて行く、というような具合であろうが、実際に私がとった行動とは限られた1公演のみに絞って東京への渡航予定を立てるようなものであった。なんなら、この1公演に行くことすらも本当に迷って、迷って、迷って、ただ1公演も見ないことで後悔したくないという思いで決めたものであった。
今思えば、この「後悔したくない」という思いは大正解なのである。私の信条は「迷ったら絶対に後悔しない方を選ぶこと」なのだが、このやっとの思いで選んだ東京凱旋公演の1公演は、大切なオーガストの記憶のひとつになったのである。
『Risky Game』
4月に入り、ずいぶんとまともな人間らしい様子に戻った私は東京公演千秋楽のライブ配信を見た。すると、そこにいるのは”オーガスト”なのである。
上記した通り、オーガストというキャラクターは『A3!』の物語が始まった時点で既に死んでおり、御影密と卯木千景の知覚、特に彼らの記憶を持ってのみその姿が語られる。しかし舞台上ではどうであろうか。
これは舞台という機構の特性により生み出される、舞台ならではの演出なのだが、一方で御影密が”今”を生きている時、もう一方ではオーガストがその姿のまま舞台上に立って”今”を生きる御影密を見守っているのである。
『Risky Game』において御影密は、オーガストが最後に願った「(自分たちのことは)すべて忘れて」という思いと、オーガストと過ごした家族としての記憶を無くしたくないという思いの間で悩み続け、最後にその答えを出す。御影密が悩むその姿というものを、オーガストは舞台上で見ているのである。それはまさしく、オーガストを失った彼らには見えない姿で、彼らのことをきちんと見守っているということなのである。そこには、オーガストの意思があるのだ。
これは舞台上でのオーガストの歌、そして台詞である。
「思い出を忘れない」と決めた御影密に対して、オーガストはこう言って笑いかけ、御影密の周りにいる冬組のメンバーを見て、彼らに大切な家族を託すようにして舞台から消えていく。
その後、眠った御影密の夢の中にオーガストは再び現れる。「都合のいい夢?」「そうかもしれない。でも、それを言ったら台無しじゃない?」そんなふうに彼らは微笑み合い、話し始める。これは御影密の夢である。されども、オーガストは御影密の目を見て話し、首を傾けて、微笑んで、卯木千景のことを思い出しながら自身の指輪を触ったりするのである。泣きながら眠りそうになる御影密を受け止めて、彼を寝かせて、「おやすみ」と言って彼の頭をなでもする。
これは舞台であるから、役者は演技をする。そうして役者が感情を寄せたキャラクターには、そのキャラクターの意思があるのだ。
物語中にオーガストが登場するのはこれまでであるが、最後にカーテンコールでオーガストは再び登場する。しかしその姿は、あくまでも、舞台上に立つ他のキャラクターからは見えていないという体なのである。途中から登場したオーガストは舞台中央の階段に座って笑い合う御影密と卯木千景の中央に、しかし彼らの目線には入らない少し高い位置に座って、そんな二人の様子をニコニコと笑いながら見つめる。そうして彼らと一緒に少し踊って、最後には満足したみたいに、しかし少しだけ彼らの姿をまたうかがいながら舞台上から消えていく。
「舞台化」による利点とは様々あるが、この舞台以上にそれを感じたことはなかった。
何度も言うが、この舞台においてオーガストは、オーガストとしてそこに立っていたのである。御影密と卯木千景という大切な家族の幸せを願ったオーガストがそこにはおり、彼の姿が誰からも見えなくなってもなお、オーガストは二人の近くにいるのだと、それを舞台という機構を通して提示されたのである。
さらにはこの作品の劇中劇『Risky Game』において主人公リアムを演じ、そんなリアムの元をある日突然立ち去った婚約者キャサリンを、オーガスト役の和田琢磨が(物語上ではアンサンブルのひとりとして)演じる。キャサリンとオーガストに直接的な共通項は何もないが、御影密にとっての大切な人であるオーガスト、リアム(演:御影密)にとっての大切な人であるキャサリン、そしてこの二人はどちらも突然消えてしまうという点で御影密に同様の感情を想起させる。これは舞台という特性上起こり得る、一人の役者が複数の役を演じるという一手ではあるが、この配役においては特別なのである。
『A3!』という物語に触れている時、私はずっと、オーガストが幸福であったのかどうか知りたかった。物語の中では確固たる意志で家族を生かすオーガストの姿が目立つが、彼が彼のとった行動に後悔することはなくとも、家族と過ごせたかもしれない幸福や生に少しでも執着があれば良いと思っていた。その感情に対する答えがこの舞台上にはあり、私はこの時はじめてオーガストというキャラクターの”生”を見た気がしたのである。
愛知にも、東京にも、大阪にも行く
そんな、夢のような舞台を、オーガストの姿を見せられてから1時間も経たずに、私は名古屋公演のチケットを取っていた。
愛知行きの飛行機を予約したのはそれから19分後のことである。
持病は落ち着いてたとはいえ、この日の私は少し様子がおかしかったのは事実である。偶然にもこの日の午前中にちょうど親族の法事があった。私と同世代で、小さい頃から一緒にいて、ほんの数年前に亡くなった友人の法事の後に私は冬単を見ていたのである。自分の感情を舞台上に重ねていたということではないが、思うところが全くないというのは嘘になる。少なくとも私は、今しか見られないオーガストの姿を見なければ後悔するという思いで動いていた。
この時点で私が持っていたチケットはまだ残席のあった19日公演A席の1公演のみであったが、このチケットを取り、飛行機を予約するのと同じ流れでチケプラに登録したために、公演当日までにもう2公演分のチケットが増えた。さらに当日引換券も取れたために1公演追加となり、結局は愛知公演は全公演を見たことになる。先週まで愛知公演のチケットなど1枚も持っていなかったのに、である。
愛知に訪れた時にはまだ大阪公演を見に行くことは考えていなかった。しかし愛知公演期間中に大阪公演周辺のスケジュールを調整し始め、東京凱旋公演中にチケプラで大阪公演のチケットが取れたことをきっかけに大阪に行くことも決めた。それはちょうど東京凱旋公演を観劇中だった4月21日のことである。
私は演劇が好きであった。裸一貫で舞台上に立つ役者が表現する様々を見て、人間のことを考えるのが好きであった。ただその行為は感情を突き動かされた結果というよりも黙々と分析をするに近い。しかし、こと冬単においては違った。私は間違いなく舞台上に立つオーガストその人の感情や、そこにある様々に心を持ち去られていたし、そこで発生する感情のために行動していた。
上で述べた持病の悪化による症状のひとつに、感情の平坦化(感情が揺れることを嫌ったという表現の方が近いのかもしれない)というものがあった。その面を切り取ると、私は冬単を通してリハビリをしていたのかもしれないという気持ちにもなる。
いずれにせよ、私はそうして長い長い冬眠から明けたのであった。
日常に戻る
私は演劇が好きで、和田琢磨が好きである。持病が悪化する前は和田琢磨が出演する舞台を中心に東京へ行き、大阪へ行き、そうでない時は地元の小劇場を回って演劇を見ていた。それが2023年冬までの私である。
さて、こうして病気で死にかけ(本当に死にかけていました)、いざ戻ってくると、もとより私の信条であった「後悔しない選択肢を取る」という思いに拍車がかかるのである。私にとってのライフワークとは「演劇」と「創作」である。「じゃあ、もう死ぬまでそれをやるしかない」と、そんな思いになるのである。
冬単の大千秋楽公演を終えた5月12日の翌日、5月13日の12時から和田琢磨が出演する『舞台『鋼の錬金術師』―それぞれの戦場―』の条件付きS席の発売が始まった。上記理由により様々な観劇の予定を流していた私は当然ながらハガステのチケットは持っておらず、この機会にと思ってチケットを買ったのである。そのまま飛行機を予約し、ホテルを予約した。
ハガステにおいてエドとロイはそれぞれWキャストでの上演であったが、私は廣野凌大が演じるエドと和田琢磨が演じるロイが見たい思いがあった。そのため、同キャストの日程を選んだら、ちょうど人から誘ってもらった創作イベントと日程が丸被りしてどうしようかと思ったが、どちらもワイフワークなのでそのまま突き進んだ。「後悔しない方を選択する」のである。
誰かのエネルギーを浴びて、生かされる
『舞台『鋼の錬金術師』―それぞれの戦場―』もまた演劇という機構の良さが出た舞台だった。というか、作品の完成度と熱量が他の比ではないのである。
私は、舞台を見つめた時に面と向かってぶつけられる熱量を、演劇と呼んでいる。それは演技力でもあるのだが、その中身を細かく定めるのは無粋で、それはただ人間という裸一貫で舞台の上に立つだけの存在が放つエネルギーなのである。そのエネルギーをこの身で浴びて、理解して、初めて演劇というコンテンツが成り立つのだ。
『A3!』内での表現を借りるならば、それは本物はほとんど存在しない舞台上に、エドたちの故郷が見え、家が見え、ロイが立った戦地が見え、悲惨さが見えるような、彼らが辿った道のりを見せられるような、そんな心地になるのである。私はそれを、演技による説得力というよりも、人間が持つエネルギーの仕業であると思いたいのだ。
冬眠を明けた私が最初に見た舞台がこのハガステであったのはとても幸運だった。オーガストという存在を通して正しく働くようになった感性の様々に、ハガステで浴びたエネルギーによって大量の燃料が与えられたような気がする。
私はこの先もたくさん演劇を見るであろう。そして、半ば依存するみたいに、それらを燃料にして生きていくのであろう。
結局のところ「好きなもの」が私を人生に引き戻してくれるのだ。