副業で年商1億を達成してから挫折を通して生き方に気付いた話
最初にお読みください
わざわざ、こんな自分語りのテキストを見ていただき、本当にありがとうございます。
このnoteは、じぶん情熱大陸をイメージして作成しました。
わたしは引っ込み思案でコミュ能力も低く、裏方が好きな人間です。
そんなやつでも、自分の力で生きる道をつくり、社会で役に立つ存在になれるヒントをお伝えできればうれしいです。
このnoteを読むことで得られること
・独立を目指す会社員の方 … 独立してからのリアルを知ることで、心の準備と覚悟を決めることができます
・いま苦しんでいる起業家の方 … 苦しいのはあなただけじゃない、って前向きな気持ちになれます
・グングン伸びている起業家の方 … 情けないやつだなぁ、と笑い飛ばし自分に自信が持てます
「何者か」になりたかった30年間
兵庫県たつの市。自宅から5km以内に信号がない、地方の田舎に長男として生まれました。初孫として祖父母には可愛がられ、愛情表現が控えめな両親でしたが普通に関わってくれました。
貧乏でも裕福でもなく、両親との確執もなく、どこにでもいる昭和53年生まれの男子です。
小さい頃から身体が細く、サッカークラブではずっと補欠、同級生とケンカしては負けて泣くことがよくありました。
「運動ができて、会話も面白いやつには敵わない」
という劣等感を感じながら、クラスの人気者を羨望で眺める立場でした。
そこで、みんなが面白がってくれる遊びを考えたり、マンガを書いてみたり、一歩引いたところから自分のアイデアを形にするポジションを確立したと思います。
地元の公立の中学高校と進学して、大学受験では担任のすすめで旧帝大の工学部を目指しました。高3の春の時点ではD判定でしたが、自分なりに勉強の方法を工夫して、コツコツ取り組むことで、現役で合格しました。
この経験から、自分なりに工夫することが僕の強みになりました。
また「目立ちたい、何者かになりたい」欲求を抱えていました。生徒会に立候補してみたり、飲み会の幹事を買って出たり。その他大勢に組み込まれると不安を感じ、人と違う役割を担うことで安心する、そんな心のクセがありました。
このnoteは、そんな僕が起業を通して挫折を味わい、心の葛藤を手放すことができたエピソードをお伝えします。
(資料)きぬの基本スペック
副業で年商1億円を達成した経緯
「月3万円でもお小遣いを稼げたらいいな」
そんな気持ちで、2008年からネットビジネスのトレンドにのっかった副業を始めた。ウェブ広告を使って写真上達のDVDを通信販売する事業である。
スタートした当初はコンセプトもラインディングページもイマイチで、広告費を10万円かけて売上5万円と、鳴かず飛ばずの状況だった。結果を出せない焦りに加えて、生まれたばかりの双子の育児に忙殺され、一時はビジネスをあきらめたこともあった。
でも、「何者かになりたい」想いで、通勤電車での作業を継続させた。1年かけてランディングページをコツコツ改善したところ、ようやく見込み客のインサイトに刺さるコンセプトを見出した。
ウェブ広告を20万円かければ、40万円売れる。50万円かければ100万円売れる。自分でビジネスをコントロールできた気分になれた。やればできる!30歳でようやく掴んだ成功体験を通して、自分に自信を持つことができた。
2012年になり、月商100万円を毎月キープして、顧客リストも積み上がっていた。このころからプロ写真家とコラボして、新しいDVD教材を販売した。副業ながら年2500万円を売り上げ、事業を法人化した。
売上を広告費につぎ込んでいたため、手元に残る利益はそれほどでもなかったが、会社員でありながら自分の会社を持っているのは誇らしかった。勤務していた一部上場メーカーも出世頭ではないけど、よい評価をもらっていた。
ゼロイチの起業家が集まるコミュニティでは、顔を出すたびに「あ、きぬきぬさんだ!」と声をかけられた。
子供のころから渇望していた「何者か」にようやくなれた、そんなふうに感じていた。
そんな2012年のある日、妻から「生理が来ない」と言われた。
検査してみると妊娠、4人目の子供だ!
双子の子育て、副業の成功と、「普通でない生き方」に快楽を覚え始めていた僕は、「また面白くなってきた!」と嬉しくなった。妻にも「おめでとう!やったじゃん!」と声をかけた。子どもたちも新しい家族にとても喜んでくれた。
そこで、かねてからやりたかった計画を実行に移すことにした。育児休業を取得して、本業をしばらく休み、副業に専念することだ。育児休業の期間は1年間、勤務先の事業所では男性初の事例だったが、上司も理解してくれた。
2013年3月、無事に4人目が誕生して、念願の育児休業をスタートした。妻にゆっくり育児に集中してもらうために、朝昼夕と食事をバッチリ用意しつつ、家族が寝静まった朝4時から7時まで仕事をする日を続けた。
2ヶ月ほど経つと育児も落ち着いてきた。仕事に集中するために、横浜のコワーキングスペースを契約して、作業場所を確保した。
ついに、思う存分副業に集中できる!やりたかった理想の生活が始まった。
1年前からチームに入ってくれた、広告運用スタッフや映像制作スタッフの協力のおかげで、DVDの新タイトルが4日間で1950万円の売上を記録するなど、事業は順調に伸びていった。
2013年12月、副業の売上が年商1億を超えた、記念すべき年だった。
香港で心の声を聞く
そんな折、知人の先輩経営者2人と香港にプチ旅行する機会があった。
せっかくの機会なので、自分の事業についてアドバイスをもらいたい!と思い、数年後を見通した事業計画書を書き上げて見てもらった。改善点とか具体的なアドバイスを期待していたが、その答えは意外なものだった。
僕「この計画、どうですかね?」
先輩A「これ本気でやりたいと思っている?」
先輩A「なんていうか、きぬきぬの熱量を感じないんだよね」
僕「えっ!?」
これまで、ビジネスは形だと思っていた。本業である電子回路設計のようにシンプルながら機能を満たす美しい形を描けばよい、そう思っていた。
熱量ってなんだ?美しいビジネスモデルを考えて、あとはそれを形にするだけなんじゃないか?最初はアドバイスの意味が解らなかった。
少し時間を置いて考えてみた。これまで「副業で稼ぐスーパーサラリーマン」が僕のアイデンティティだった。でも「サラリーマンを辞めたら、僕の人生はどうなるんだろう…」って考えが浮かび始めた。
そこで、同行していたもう1人の先輩経営者に聞いてみた。ぼくが長年目標にしていた、副業で7つの収入の柱を持つスーパーサラリーマンだったのだが、震災の翌年にサクッと独立していたのだ。
僕「なんでサラリーマンを辞めたんですか?」
先輩B「人生をおもしろおかしく生きるためですよ!」
想定外だった。堅実で人生を踏み外さないと思っていた人から「おもしろおかしく生きる」という言葉を聞くなんて…。
その2人と分かれてから、1人で香港の夜景を一望できるビクトリアピークに向かった。キラキラ輝くイルミネーションを眺めながら、ぼくは自分に問いかけた。
「これから、どうしたい?」
「どうなるかわからないけど、やってみたい!自分の力を試したい」
それが僕の心の声だった。
独立を視野に入れたライフプラン
独立したい!という気持ちを抱くようになったけど、内心では「いつかタイミングが来たら」と思っていた。
僕は人一倍不安がりで石橋を叩きまくって渡るタイプである。家族を抱えたまま、無謀なチャレンジをするほど強いハートなんて持っていない。
おまけに、勤務先は日本を代表する一部上場企業、副業と合わせて十分な所得もあるし、社会的な地位も安泰である。
だから、育児休業のあいだにビジネスの基盤を整えて、副業を続けながら更に売り上げを伸ばし、安心できる資産を構築できたら独立を考えよう。と思っていた。
1年間の育児休業も終わりが見えてきたころ、復職してからの体制を整えるために、スタッフを増員した。コワーキングスペースを出て、横浜駅の近くに新しく事務所を設けた。
家賃40万円、内装費をあわせて初期投資が150万円ほどかかった。
いま振り返ると無謀だったが。
そのとき、売上はまだまだ伸びると思い込んでいた。
自分がどこまでできるか、試してみたい
そんなころ、別の先輩経営者から起業家サロンへの誘いがあった。
以前からぼくの性格を見透かしたかのように的確なアドバイスをくれる先輩だったので、迷わずサロンに参加した。
十分に実績を出している起業家10人と一緒に、熱海、台湾、北海道など各地を合宿形式でまわり、先輩経営者のレクチャーを受ける。
気の合う仲間と、観たことない景色を巡り、夜はお互いのビジネスだけでなく内面まで踏み込んだディスカッションを繰り広げる。非常に充実して学びも多く、参加してよかったと感じた。
ただし、参加している起業家はみな独立していて、会社員は僕だけだった。興味本位で参加したサロンだったが、自分の事業に人生をかけて勝負する仲間を見るうちに、僕も自分の力でどこまでやれるのか試してみたくなった。
妻に退職を告げる
1年間の育児休業も残り2ヶ月になった。
子供が寝静まった夜、妻とリビングで向かい合い、僕は切り出した。
「考えたんだけど、会社を辞めようかと思っている」
意外にも妻は賛成してくれた。家族さえしっかり養ってくれれば、好きにやっていいと背中を押してくれた。僕のことを信じてくれる妻がありがたかった。
育児休業を終えて、1年ぶりの出社。すでに退職の以降は伝えて手続きも終えているので、机周りの荷物を整理するだけ。上司や同僚が心配そうに「大丈夫か?やっていけるのか?」と声をかけてくれる。
帰りの電車から会社を眺めた。社会人になりたてで、何もできない新人のころから一人前になるまで育ててくれた場所。上司、先輩、同期の顔が次々と浮かんでくる。
僕は、自分のアイデアを形にできるエンジニアという仕事を天職だと思っていた。この仕事に一生を捧げるんだ、と思っていた。
もう引き返せない、やるしかない!
人生の転機が訪れた36歳。
不安と期待が入り交じる中、これからの明るい未来を思い描いていた。
DVD販売からオンライン講座への事業転換
さあ、これからだ!と意気込んだ矢先、気になる数字が上がってきた。いままで右肩上がりに伸びていた新作DVD販売の売上が下がっているのだ。
「DVDタイトルが20を超えて、内容がニッチになった」「期間限定のキャンペーンに煽られて買ったけど、DVDを見ないお客が大勢いる」などいくつか理由が考えられた。
スタッフから「DVDのタイトルを練り直す」「価格を下げる」などアイデアが出たが、新米経営者のぼくは思い切った行動をとった。収益の柱である新作DVD販売をやめる判断だった。
いま思い返すと無謀な判断だったが、当時は独立後の高揚感もあって「なんでもできる」気分に支配されていたかもしれない。
まず取り組んだのは、サービスの再定義である。いままで「写真上達」オンリーだったサービスを「学ぶ-撮る-つながる」と再定義した。「いい写真を撮る、その写真を通してつながりが広がり、人生が楽しくなる」という文脈である。この定義は人付き合いが苦手なぼくには全く出てこなかった発想だった。感受性豊かなスタッフに感謝したい。
その定義に基づいて、Instagram(当時はブーム前)ライクな会員制の写真投稿サイトを200万円かけて開発した。仕様策定から業者選定まで、システム開発に強い知人が手伝ってくれた。
目指したのは、1つのテーマについて仲間が集い、お互いに刺激を受けながら学び合うイメージである。オンライン講座とSNSを組み合わせた、世の中にない写真講座のスタイルだ。
次に、最初に実施する講座のタイトル決め。世の中にない講座スタイルなので、うまくいくか失敗するかどうなるかわからない。それでも、4人いる講師カメラマンの中から1人が「じゃあ、俺がやるよ」と手を挙げてくれた。
オンライン講座の収録、編集、システム設定、顧客導線づくり、これまでのDVD制作販売の経験を活かしながら、スタッフ総出で創り上げた。
リリース第一弾は全国から660人が参加する大盛況だった。オンラインの学びに加えて、オフラインでも関西や九州をまわって受講生同士のつながりを作っていった。どこでも受講生が熱狂的に迎え入れてくれた。
結果的として、いまでも会社のメイン事業であるオンライン講座ができあがった。
受講してくれた方々の満足度も高く、一緒に学ぶという共通体験を通過することで、非常に良質な顧客コミュニティが形成された。
世の中に新しい価値を創り出した、達成感を感じることができた。副業ではここまでやりきれなかった、独立したからこその成果だ!と胸を張ることができた。
キャッシュアウトの恐怖と直面する
その達成感はキャッシュフローという現実を見たときに、絶望へと変わった。
スタッフの増員、新しい事務所の家賃、自分の役員報酬など、毎月2-300万近い経費が出ていく。新形式のオンライン講座は3ヶ月ごとに開催しているので、1度でも企画がコケたら即キャッシュアウトとなる。
口座残高が100万円を切った直後に、売上の1000万円が入金される。そんなギリギリの資金繰りもあった。
追い打ちをかけるように、集客の柱だったウェブ広告の獲得単価がじわじわと上昇していた。いままでウェブ広告から大量に新規顧客を獲得できることで、成り立っていたビジネスモデルだったが。もはや採算が取れる単価設定では新規の顧客をほとんど集められなくなっていた。
「世の中にない価値を生み出しているのに、なんでこんなに利益で苦しんでいるんだ?」
この状況を説明できず、わけがわからなかった。
なにか現状を打破しないと…
知人から勧められたサハラマラソンにも出場した。
しかし、状況は変わらなかった。
1人で悩みを抱えるのが苦しくなり、スタッフとパートナーカメラマンにも現状を伝えた。いまの状況を突破する新しい施策をみんなで相談した。
「キャッシュアウトするまでになにかをやらねば、でもなにをやればいいかわからない…」
僕はもう混乱しきっていた。僕がそんな調子なので、スタッフの間でも不安の声が出てくる。心配性で人に嫌われたくないぼくにとって、そういう声があるだけで申し訳ない気持ちになりストレスが増した。事業が伸びているときと落ち込んでいるときで、会社の雰囲気はこんなにも違うんだと実感した。
「なにか新しいことをやらねば!」の強迫観念から、このタイミングでさらに新しい人を雇い入れる悪手もやった。日々の雑務に追われていたことから、常勤スタッフを採用して、さらに経費が増えた。混乱の極みだった。
このままの状況が続くと、6ヶ月後にキャッシュアウトする。目の前が真っ暗になって、足元がどこまでも深い穴に落ちていく感覚がした。
小学生、幼稚園の4人の子どもたち、本来なら一番かわいい時期である。休日に一緒に出かけたり、公園で遊んでも、心の底から素直に笑えない自分がいた。もしキャッシュアウトしたら、この子たちの生活はどうなるんだ…。想像しただけで胃が苦しくなって気分が悪くなった。
「何者か」になれた自分を手放す
この状況をなんとかするには、短期間で売上を安定させて伸ばすしかない。でもそんな方法が思いつかないなら、やれることは経費削減しか無い。
エクセルで何度も資金繰りシミュレーションをやってみた。事務所をもっと狭い場所に移して、スタッフの数を減らす、コスト高の外注も見直す、そうすれば持ちこたえられるはずだ、やればいい。
ここで、ブロックとして現れたのが自分のプライドだった。
副業で年商1億を達成して、起業家コミュニティではちょっとした存在になった自分。身体が細く、常に人より劣っている自己認識から、ようやく「何者か」になれたのに。
せっかく登ったこの階段から降りるのか、降りられない。もうあのころの「何者でもない」自分に戻りたくない。
悩んで悩んで苦しんだ末…
事務所の解約通知を、不動産会社へFAXした。
FAXの送信を終えた瞬間、ぼくを縛り付けていたなにかがバラバラと崩れる音がした。
「結局、なにも残せなかった…」
誰もいない広いオフィスで、一人泣いた。
成功と転落のタネ明かし
事務所の解約通知をFAXした、その日の帰り道。
僕の携帯に着信があった。1-2年ぶりに聞く懐かしい声。
「きぬきぬさーん、げんきー?」
知人の経営コンサルタントからだった。
なぜ、このタイミングで!?
なにかに導かれるような電話に驚き、翌週に会う約束をした。
誰もいない広いオフィスで、彼と一日中話し合った。ゼロから年商1億まで伸ばせた事業が急に苦しくなったのはなぜか?これからどうすればいいのか?
わかったことは次の通り
・「ウェブ広告→リストマーケ」の流れをここまでやりきったことはすごい
・CPAが低いタイミングで参入できたことが勝因、つまり成功理由はオポチュニティの獲得
・LTVを上げなかったことが敗因、現に客単価は3万円程度
・経費削減で出血を止めたことは正解
・キャッシュアウトまでの時間を稼ぐあいだに、SEOなどを活用してCPAを下げ、高単価サービスでLTVを上げることが必要
「そうだったのかー」
いままで、CPAとLTVを知らず、ウェブ広告の単価が安いことにあぐらをかいて、客単価を上げる努力をやってこなかった。目からウロコだった。
客単価アップと経費削減に奔走する
家賃を下げた手狭な事務所に移り、スタッフも常駐1名+パート1名まで減らし、再スタートを切った。
まず着手したのは、商品単価のアップ。いままで受講料15000円だったオンライン講座を39800円まで一気に引き上げた。離れていったお客もあったが、おおよそのお客は納得してくれた。このときほどコミュニティを作っておいてよかったと思ったことはなかった。
僕のように、優れた洞察力も人並み外れた実行力もない凡人が生き残るには、時間をかけて積み上げる戦略しかない。
じゃあ、何を積み上げてきたか?それは顧客との信頼関係だった。
受講生の多くはシニア世代。仕事も子育ても一段落して、身体が元気なうちに楽しみたい!そんな想いを持っている。僕たちは「学ぶ- 撮る-つながる」の体験を通して、充実した人生を提供している。
オンラインで接点を作り、オフラインで講師や他の受講生との関係を構築してもらう。ついでに僕の人間性を知ってもらう。誰にでもできる地道な積み上げ戦略だ。
次に安定した収益と、オンライン講座のリピートを促すために、月会費のメンバーシップ制度をつくった。月額1980円で限定コンテンツを配信、かつオンライン講座を割引で受けられるようにした。結果として、このメンバーシップ有料会員が経営の安定化に貢献することになる。
また、オンライン講座のラインナップを撮影技術から被写体別まで幅広く拡充した。同時に複数の講座を開催したり、小規模なテーマも扱い、細かなニーズに対応できるようにした。毎月の受講料でサブスク的なオンライン講座も作った。駆け足のように次々と講座のバリエーションを増やしていった。
いままで映像ディレクターに委託していた映像も、自分で内製するようになった。もともと機械ものは好きなので、映像の撮影と編集はすぐに習得できた。常駐スタッフにも撮影と編集を覚えてもらい、映像制作のコストを80%下げた。同時にzoomを導入して講師と受講生がリアル感覚でつながれるようにした。
おかげで客単価は倍になった。
一方で、ウェブ広告の単価上昇は止まらず、SEOも立ち上げきれていなかったため、新規の顧客流入は細々としていた。
「大丈夫だよ」って言って欲しい…
事務所を移ってから1年半。新規の流入が少なくなっている状況で、じわじわとキャッシュフローが厳しくなっていた。何度も資金繰りシミュレーションをやってみたが、最悪のケースで4ヶ月後にはキャッシュアウトする予測になった。
「ここまでやっているのに、ダメなのか…」
前回の失敗は、CPAとLTVの仕組みを知らずに客単価を上げる努力を怠ったのが原因だった。今回は客単価を上げているにも関わらず、経費に見合った利益を得られていない。つまり事業規模が小さくて、経費をまかなえていないのだ。
「努力を積み上げれば、状況を変えられる」という自負があったが、それも無くなった。自分でなんとかできる自己効力感が失われた。
「誰かに話を聞いて欲しい…」と思い、起業家の友人に片っ端から連絡して会ってもらった。
「事業が苦しいんだけど、どうすればいいかわからない…」
素直に弱みを見せて、悩みを打ち明けた。
「なんだ、きぬきぬも大したこと無かったな」
と見下されたらどうしよう…、と不安だった。この期に及んで、見栄を気にする自分が情けなかった。
けど、みんな温かく話を聞いてくれた。
特に、僕の口から
「『大丈夫だよ』って言って欲しい」
という言葉が出たとき、僕の中で我慢して抑え込んでいたものがほどけた。そうか、僕は弱っちい自分を見せたくなかったんだ。
「人に嫌われたくない!」そのために僕はスゴイと言われる存在にならないといけない。そうした観念で40年生きてきたけど「情けない自分でいいんだ」とOKを出せた。
涙が止まらなかった。
自分の生き方を見つめ直し、次の世界へ
そこから迷わずにリストラを決断できた。
机や冷蔵庫など事務所の備品を知人に引き取ってもらい、事務所をシェアオフィスに移し、最低限の仕事ができる環境だけ残した。常駐スタッフも体調不良を理由に離れていった。
月50万円近い経費を削減できたおかげで、キャッシュフローが好転した。
このころから、月課金のメンバーシップが回り始めて、いままでできなかった1年後の資金繰りが見通せるようになった。
「よし、ここからだ!」
と、意気込んだとき、急にやる気がなくなった。
シェアオフィスのパソコンの前に座っても、メールを1通返すのがやっと。自分の気持が自分でわからなくなった。
大学受験、昇給試験、副業の立ち上げ …、僕のいままでの人生は、不安をきっかけに焦燥感で突き動かす生き方だった。原動力である不安がなくなったとたん、何をモチベーションにすればいいかわからなくなってしまった。
さらに、長年パートナーとして一緒にやってきた講師カメラマンの1人が急逝した。僕と一緒に事業を成長させ、誰より成果を喜んでくれた人だった。
広告業界の第一線を退いたタイミングで僕と出会い、全国の受講生にプロの知識と経験を伝えてくれた。敬愛する受講生も多かった。
「今の俺があるのは、あんたのおかげだよ」と口癖のように言ってくれた。「あと5年は働いてもらいますよ」と冗談を言い合っていたのが、ただ懐かしい。
僕の事業の成長を誰より喜んでくれた人がいなくなったことで、なんのために事業をやっているのかわからなくなった。
でも、このころから、少しずつ色んな人に会う機会が増えていった。そのなかで、僕がいままで培ってきたウェブマーケティングの知識と経験がまんざらでもないことに気がついた。
コンサルとして誰かのビジネスを手伝ったり、映像制作の手伝いなんかもやらせてもらった。みんな喜んでくれた。僕一人でも誰かの役に立てることがわかった。
独立してからの6年間を振り返ると
「何者かになりたい」プライドを手放した
「かっこ悪い自分を見せたくない」見栄も手放した
そして、誰かの役に立てるマーケティングや映像関係の技術を手に入れた。
いまは自然体で人と接することができる。自分より実績を出しているかとか、能力が優れているかとか、そんなことは関係なく、その人の内面の価値観や、その人だけが持つ視点に興味を持てるようになった。
「月3万円でもお小遣いを稼げたらいいな」
からスタートした旅も12年目を迎え、一つのサイクルが終わった気持ちがする。
さあ、次の世界に向けて、一歩ずつ歩き出そう。
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