平日4日間部屋に籠り切って仕事をしていた眠い生活のなかで、減失したもの以上に、気づけば何かが充足していた。
いま多くの企業でリモートワークが推奨されている。学校は自宅学習や休校が相次いでいる。
オンライン会議や、ウェビナー授業、メールやチャットでの宿題提出。中国の学校では、各家庭からビデオを録画して試験を実施しているところもあるらしい。
すべてが遠隔で対応されている。逆に言えば、それで事足りる時代になっているはずなのに、自分たちは何をしていたんだろうと気づかされる時が来ている。不謹慎かもしれないけれど、怪我の功名も甚だしい。「本来は以前からできたはずだった」と多くの人が言う。
ぼくは生活に影響が出ている実感があまりない。ニュースではリモートなり休校なり、時差出勤なりが連日報道されているけど、ぼくは普段からリモートで仕事をしてきたからだ。ちょうど1年ほど前からそうだ。
個人で受注している仕事でオフィスに行くことはほぼないし、いま取り組んでいる仕事も、特に取材が必要なものではないので人と会うことはない。所属している会社のオフィスに行くことはあるけれど、もともとスーパーフレックス制でほとんど行っていない。
そのほか個人の仕事では取材もあるけれど、満員電車は避けられるし、取材で大人数の集まる場所に行くことはほとんどない。
オンラインコミュニティでは、その名の通りすべてオンラインでやり取りするので関係ない。
そんな生活をしているので、家から出ないこともしばしばある。まさに今週の平日は月曜から木曜まで一歩も外に出ず仕事をしていた。非常に良くない。
Zoomやハングアウトなどを使わない限り誰と会話することもないので、声を出すことが久しくなったり、心なしか笑うこともなくなったりする。まったくひどい生活をしている。
ネットやテレビの向こうでは大騒ぎで、人々の心のなかも不安が渦巻いているけれど、さほど生活が変わっていないという人が実は多いんじゃないかと思う。それで健康ならそれが何よりだとも思う。
先日、社会学者の古市憲寿さんが、PCR検査を受けようと受けまいと、かかっていようとかかっていまいと、医療崩壊を起こさないという意味で行動は変わらないはずなのに、どうしてみんな検査を受けたがるのかと話していた。至極まっとうな意見だと思う。
かかったら治す、かからなかったら大丈夫という話ではなく、医療機関が機能しないことのほうが問題。本当に必要な人に安定的、継続的な医療提供がなされなくなるほうが社会に大きな影響が出る。ここでたとえば「一人の命を軽視している」という人がいたとしたら、その人は認識違いをしている。古市さんの発言を批判する人がいたら、たぶんそういう人だと思う。「かかった、かからない」に関係なく誰のためにも行動は変わらない、という話だから。
基本的に表に出ない。可能な限り人と接触しない。マスクを着用するなど、かからないためのできる限りの予防をし、万が一かかったとしても人にまき散らさないための行動をするしかない。
ぼくがまだ短い期間ながらも、基本的にリモートで仕事をしてきて思うのは、仕事もコミュニケーションも大体リモートで何とでもなる世の中になっているし、リモートで稼げる世の中にもなっているということ。物流現場や店舗運営はなかなかそうもいかないかもしれないけど。
いまのような状況下で、家と会社以外に居場所を持たない人は辛いかもしれないけど、オンラインサロンやファンコミュニティみたいな、居場所になり、はけ口になり、実質的な共助コミュニティになるようなサードプレイスを持っている人はあまり不便を感じない。あとは一人研鑽、一人遊びが得意な人は最強だと思う。
もちろん直接的に話せるほうがいい。でもすべてに直接性を求めなくても間接で事足りる部分はあって、それが物足りなかった時にだけ直接的なコミュニケーションを取ればいいと思う。
「テキストコミュニケーションには心がない」と言う人もいるけど、昔から人は手紙に心を込めてきたし、石に文字を掘っていたときから思いはそこにあったはず。いまの状況に限らず、これからますますテキストコミュニケーションは増えると思う。
現代の若者は、携帯やスマホがなかった時代の人々よりも、文字でコミュニケーションをすることがずっと多くなった。文意や行間の読解力は人それぞれだけど、少なくともテキストのやり取りに慣れてる。若者なりにテンションや感情を伝え合う方法も無意識に模索してやり取りをしている。この “慣れ” がある人は強いし、慣れようとしない人は淘汰されてしまうんだろうなあと。
ライター 金藤 良秀(かねふじ よしひで)