#5 ゆく河の流れは… ~韓氏意拳について②~
あまり興味のない人に、マイナーな中国武術の話を延々としても、どうなの?…とゆー感じだが、"今という時代"…を考えるのに、この『韓氏意拳』は、とても"うってつけ"だと思うので、引き続き…。(^_^;)
まず、一般的な武道やスポーツでは、メンタル的には"~がない"、"~出来ない"…とゆーマイナス面からスタートして、フィジカル面では、筋力をつける、技術を習得する…とゆー足し算、プラスの過程を経ていく…。
『韓氏意拳』は、前回#4で述べたように、メンタル的には、"もともと持っている"自然状態への回帰…とゆープラス面からスタートし、フィジカル面においては、具体的な技術や無駄な力を排していく…とゆー引き算、マイナスの過程を経ていく…。
ー自分自身のごく大ざっぱなイメージではあるが、以上のプロセスを見比べただけでも、『韓氏意拳』が、従来の武道やスポーツとは全く真逆の発想である事が理解出来るであろう。
『韓氏意拳』は、突きや蹴りといった技術体系がなく、具体的には、中国武術の"招式"や"套路"という、いわば"型"のようなものを一切排し、"站樁"(たんとう)という鍛練法を核心に据えている。
"站樁"とは「杭のように立つ」という意味で、"立禅"とも言われたりするようだが、まさしく傍目には、ひたすら立って、じっとしてるようにしか映らないだろう…。(ーー;)
しかし、それは"火にかけられ、ゆだっている鍋"だの、"高速で回転しているコマ"…とゆーように例えられる。
ーすなわち、"静"中の"動"…。(ーー)
動いてないように見えて、その実、からだの中は、絶えず動いている…。
"国手"と称されたほどの使い手・王向斎が、「形骸に似るを求めず、神意足るを求める」という言葉のごとく、形はあっても意がなくなった中国の伝統武術を憂い、『形意拳』から『意拳』を創始した。
しかし、時代の流れとともに『意拳』すらも、知らぬうちに形骸を求めるような状況になりつつある中、その本義を見失わないために…と、創始されたのが『韓氏意拳』…。
いわば、"現代版"『意拳』である。
この『形意拳』→『意拳』→『韓氏意拳』…という流れは、近代から現代…という時代の流れと、決して無縁ではない。
今や、ネットにAI、5G…。SNSの普及で、世界中、誰とでも簡単に会話ができ、人間よりプログラミングされたロボットの方が、より低コストで、迅速かつ丁寧な仕事をしてくれる。
日常生活においても、家電製品が大部分をサポートし、移動も車ですむ。
確実に、我々の生活は、快適に便利になっている。
ーしかし、かつては当たり前のように人の力でやっていた事も機械がやってくれるようになり、人間のからだは、単純化、簡易化された動きばかり…。
安全な生活によって危機感も薄れ、当然、使わないことで、その能力は大きく衰退してきた。
ー翻って『韓氏意拳』、その目指すところは"自然状態"への回帰…である。
自然界では、いつ何が起きるかわからない。
そうした危機感と、瞬時に動ける活力のある"状態"…。
いつでも動き出せる感じ。
全身のまとまる感じ。
そうした自然な"状態"を把握をする方法として、『韓氏意拳』は"站樁"を用いるのである。
-しかし、その自然な"状態"を把握する…とゆーのが、また難しい。
そもそも、言葉で説明することは出来ない。
からだで感じるしかない…。
(『韓氏意拳』では、これを"体認"という)
漢字の「意」は、「音」と「心」とゆー字から成るが、「音」は神の訪れを表し、「意」は聞こえない神の訪れを聞く力を表すそうだが、まさしく…である。
「お、今のが自然な状態だな」…と、"意識"されたものは、もう別物。
それは脳に翻訳されたものでしかない。
"意識"より"意"が先なのだ。
また「これが自然な状態だ」と、頭でイメージしたものを体で具現化するのも違う。
ベクトルとしては、トップダウンではなく、ボトムアップ…なのである。
だから、「あの時うまくいったな…」…と、その時の状態を再現しようとするのも違う。
あの時、からだが自然な"状態"だと感じたからといって、今、それが自然な"状態"だと、からだが感じるとは限らない…。
常に"今"、この瞬間の自然な"状態"を求めていくのである。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
ー鴨長明の『方丈記』の冒頭の一節であるが、今、この時の自然な"状態"というのは毎回違うし、同じことを反復練習すれば出来るようになる…とかゆー類いのものでもない。
「少しでも具体的であれば誤りである」ーこれも王向斎の言葉であるが、毎回、その"状態"をもとめて、からだの聲(こえ)に感覚を研ぎ澄ませていく…。
予想したり、予期したり、マニュアル通りでは全く通用しない。
まるで禅問答のようだが、『韓氏意拳』という難解な武術の一端は伝わっただろうか…?(゜_゜;)
今という先が読めない時代も、あたまで理解するより、研ぎ澄まされたからだの感覚、自然の本能こそが、生死を分けるのかもしれない…。
『韓氏意拳』は、毎回が未知との遭遇なのである。
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