西川浩幸を語る
キャラメルボックスの先輩、西川さんのnoteで、わたしのことをちょいと話題にしてくれました。
嬉しいです。
いい機会なので、わたしもわたしなりに、西川浩幸氏について語ろうかなと思います。勝手に。
以下に書くことはあくまでわたしの主観であり、事実とは異なることも多いと思いますし、ほぼわたしの妄想だと思ってください。
高校で演劇部に入部したわたしに、先輩はまずある一本のビデオを勧めてきました。それがキャラメルボックスの「アローン・アゲイン」でした。当時スカパー!で放送されていたものを録画したものです。
それを見た演劇青二才のわたしは「こんなにでかい声で演技をしなきゃならんのか!」と衝撃を受けました。
その中でひとり(いい意味で)気を抜いてい(るように見え)て、孤高のオーラを放つ西川さんの存在はわたしの中で大きく残りました。
これが西川・孤高・浩幸との出会いです。
その後、なんの因果かキャラメルボックスに入団することになり、ビデオの中で見たあの人やこの人と対面することになりました。
西川さんは劇団の看板で、芝居の柱を任されていて、それでいて笑いで客席を沸かし、作品と客席を繋ぐ、まさにスタァでしたが、稽古場で感じる西川さんの最初の印象は「おとなしい方」でした。
わたしはそれを意外だとは思いませんでした。
西川さんにはどことなく、孤高というか、なにかグンワリとした闇を感じていたからです。
だって常人の思考なら「虚無僧」なんてギャグ出てくるはずありません。(アローン・アゲインより)
ただハケればいいだけなのに、何かを拾って口にするなんてことできません。(なんかの芝居より)
変人、変態の思考回路です。
狂っているのです。
そんな人が、普通のオーラでプライベートを過ごされても困ります。
ご本人は普通に過ごしていたのかも分かりませんが、わたしはそれを格好いいと思い、憧れの対象として見ていました。
わたしが入団1年目か2年目のとき。
作品は「ブラック・フラッグ・ブルース」だったか「スケッチブック・ボイジャー」だったか。
公演の移動で福岡から大阪に移動しなきゃならないのに、台風の影響で、座組みの半分が福岡に取り残されたことがありました。
取り残された組は開き直って、昼から居酒屋に繰り出し、わたしも末席ながら楽しく過ごしていました。
その日の夜、急遽、制作さんが取ってくれたホテルが、なんと西川さんとの2人部屋でした。
まだ入団間もないわたしが西川さんと同部屋になるなど、リトルリーグの少年が城島健司(元福岡ダイエーホークス)と同部屋になるのと似たようなものです。
わたしは粗相のないようにと、若い奴の浅い思考なりに気を配りましたが、西川さんはもう酔っ払っていて、わたしのことなどあまり意に介していないようでした。
そして消灯間際、わたしに
「多田がいちばん輝いていたのはいつだ?」
と問いかけてきました。
わたしは
「中学3年のサッカー部の最後の試合でゴールを決めたときです」
と答えると、西川さんは
「俺も同じだ」
と言い、忘れないようにと枕元のメモに「サッカー」「中三」「ゴール」などと書き残し、深い眠りについたのでした。
翌朝、そのメモを見た西川さんは、なんのことか分からないようで、首をかしげていました。
が、そのときに勝手に、親近感を覚えてしまったのです。かわいい人だ、と。
それからご飯に連れて行ってくれたり、サッカーを観に行ったり、お家に呼んでいただいたりして、仲良くさせていただきました。
「多田の前だと、ちょっと下ネタを話してしまう」
と西川さんに言われたときは、なんだかとっても嬉しかったのを覚えています。ほんと、他愛の無い言葉だったんですけど。
芝居の話を、いい感じに受けて、流したり、打ち返したりする西川さんが好きです。
なんかもっと「西川浩幸の闇」の部分を語りたかったような気がしますが、すみませんが今回はこの辺でやめておきます
キャラメルボックスが怒涛のように公演を打ち、動員を伸ばしていった80年代〜90年代の、トップリーダーだったことは、果てしないプレッシャーがあったのだと思います。
が、これだけ長い時間一緒にいて、その時代のことを西川さんからあまり聞いたことがありません。
ご本人は喋りたがらないことなのかもしれませんが、今度会ったらその辺をまさぐってみたいぞ、と思います。
ちょっとした下ネタを交えながら。