裁判傍聴 児童ポルノの境界線
幼い児童に対しての犯罪というものは後を絶たない。
こうした事件の中で人々の記憶に深く残っているものとして「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」があるだろう。
この事件で宮崎勤は1年もの間に4件もの事件を起こし、最終的には死刑判決が下され2008年にはその刑が執行されている。
取り調べや裁判に際し、鑑定を行った医師によるとその犯人である宮崎勤は本来的な小児性愛ではなく代替的に幼女を狙ったものである、と証言されていた。
しかし、その一方で彼の性愛の対象は成人の女性より幼女とする幼女性愛、幼女よりその死体とする死体性愛、死体よりそれを解体したものとする死体加虐愛、さらにそれをビデオに撮ったものとする拝物愛へ移っていった、とする意見もある。結局外野が理論をこねくり回した所で本当のところはわからない。もしかすると宮崎勤本人にすら分からなかったのかもしれない。
本質的な原因を究明するということは難しい。
不同意わいせつ・強制わいせつ・児童買春・性的姿態撮影・児童ポルノ禁止法
セットリストに記された罪状は些か救いようのない物のように思えた。しかし表層だけで決めつけてしまうのは良くない。
もしかするとマッチングアプリなどで知り合い、恋愛感情を抱きいざ情事に至った際に相手がじつは未成年だと発覚し・・・というような事件かもしれない。もしそうだとすると多少見え方は変わってくる。
法廷には人はまばらで、私はいつもどおり最前列は被告人席に一番近い席を陣取った。
定刻をまわり刑務官に繋がれて現れた被告人は、少しばかり御髪がさみしくなり始めた短髪の50代半ばほどの男性だった。七分袖のネイビーのスウェットのセットアップという服装の彼はどこか昭和熱血体育教師の成れの果ての様な印象を受けた。髪型や顔もそれっぽいが声だけは妙にかすれており、大学生のする北野武のモノマネのみたいだった。
その姿を見た瞬間にこの事件が恐らく胸糞悪いものであるだろう、という想像がついた。見た目で判断してはいけないとはいうがこれはその限りではなさそうだ。
被告人の男性は家を訪ねてきたAちゃんとBちゃんの姉妹、Cちゃんに対しての先述した犯罪で起訴されている。そしてこの後も同様の犯罪で追起訴が控えているという。
その日の公判では主にBちゃんに対して行われた行為についての審理となっていた。
男性は知人の子供であるAちゃんBちゃん姉妹を家に招き入れた後、性知識が乏しい妹である当時8歳のBちゃんに対して服を脱がせ、写真を撮影した後に陰部を触ったり舐めたりというわいせつな行為を行ったという。
その後、姉妹が母親にそのことを話したことにより事件が発覚した。警察から確認の為にと彼によって撮影された愛娘の写真を確認した母親は「ずっと刑務所に入っていてほしい」と語っていた。被告人がずっと刑務所に入っているということはきっとないだろう。だとしてもその気持は大変良くわかるし、娘のそんな写真を確認のためとはいえ見せられた母親の気持ちを考えると胸ふたぐ想いだ。
性犯罪などを筆頭に「体験」の為に行われる犯罪の再犯率は高い。それを鑑みるともう少し何か対策が必要な気がするがそういった問題はすぐに人権問題に直結する。その度に人権とはなんなのだろうと思わずには居られない。
また、押収されたスマートフォンには上記被害者の物以外の同種の写真が保存されておりそれについても追起訴されるという。
彼の罪状のうちの一つである「児童買春、児童ポルノに関わる行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」において定義されている「児童」とは18歳に満たないものをいう。
令和4年4月1日に施行された成年年齢の引き上げに伴いそれまでは女性の婚姻開始年齢は16歳となっていたが男性の婚姻開始年齢と統一し現在では18歳となっている。
しかし、それまでの婚姻開始年齢のイメージが残っているせいか、多数派の人間からみて納得できる様な経緯があれば、16・17歳の人と交際をし、そういった行為が行われていたとしても「まぁ、本人たちがいいならいいんじゃない」と(法律的に良いかどうかは別として)思ってしまう。16歳だろうと36歳だろうと良識ある行動が取れる人間もいれば取れない人間も居る。最終的にはそういう結論に行き着くだろう。
高校生の17歳の少女が同じバイト先の20歳の大学生と交際し、そういう関係になる。みたいなものは、よほど歪なものでない限り個人的には直感的にそこまで大きな問題に思えない。なんなら少しばかり微笑ましくすら映るかもしれない。バイト終わりに肉まんなんか半分こしちゃったりして、マフラーとか1つを2人で巻いて歩くんだ。そういうやつは。
そんな2人の姿をみて「児童ポルノ」という言葉に結びつける人は多くはないだろう。
しかし、今回の事件はそれとは大きく異なる。相手は8歳だ。小学校2〜3年生ほどである。もう私は小学生であった頃の記憶も怪しいし、小学生を見る機会がないのでその年齢の子供たちがどういうサイズ感か、などあまり想像が出来ないがそれでも「性愛の対象」から大きくかけ離れているという事くらいはわかる。
そういった小児性愛というものの原因は大きく「気質要因」と「環境要因」の2つに分けられる。それらの要因が複雑に絡み合った結果が小児性愛に繋がっている。
恐らくその当事者たちは小児性愛になりたくてなっている訳ではないだろう。カウンセリングを受けようにも周囲の目を考えるとそういったセーフティネットを利用するのは難しくなってくる。なにより自分ある「問題」を受け止めるというその前段階が一番の難所になる。
これはそんなに大した問題ではない。他人に迷惑を掛けなければ大丈夫、そう思っているうちに少しずつズレが生じ最終的には取り返しのつかないところに達している類の問題だ。
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件で、宮崎勤の自宅から膨大な量のアニメや特撮のビデオが出てきたとしてこの事件は”オタク”のロリコンが犯人という報道がされた。実際にはアニメのビデオに関しては数えるほどしかなかったとされているが、そうした報道によりオタクといわれる人間への差別へと発展し、まるで犯罪者予備軍の様に扱われた。
これは、冷静にファクトとして認識して考えると些か無理筋なこじつけに思えるが当時、今よりもアニメという文化が浸透していなかった時代背景もあり、未知の異常者であるロリコンという存在を具体的に認知する為にあてがわれた雛形としてアニメオタクが用いられたのだろう。
アニメオタクという趣味とロリコンという特性は間違ってもイコールでもないし絶対に持ち得る要素という訳でもない。そういう無理筋なロジックが成立するのであれば多くの人が様々な犯罪と結び付けられてしまう。
こういった差別は「自分は関係ない」というスタンスがあるからこそ起きるものだ。それは無理解によってなせるものだ。なにより恐ろしいのはそうした判断を下す人間は「自分はちゃんと理解している」と思い込んでいることだ。それらは昨今のSNSでの誹謗中傷じみた発信とも近いものを感じる。
また、小児性愛であっても犯罪に手を染めることなく慎ましく暮らしている人も居るだろう。そうした人たちが居る中で犯罪や差別が横行し、集団意識としてネガティブなイメージが根付くことで医療に繋がるものも繋がらないのではないだろうか。
実際、小児性愛について調べてみてもその危険性や事件、果てには「見分け方」みたいなものばかりが出てきて治療については上位になかなか出てこない。多数派の人が求める情報は治療ではないだろうから仕方のない事かもしれないがそれにしても少なすぎる。
医療につなげるものが余りにも少ない中で危険性だけを煽るのは少しばかり思うところがある。
救いの手を差し伸べようということをせずに安全地帯から叩いている人が多いがその違いは「運良く小児性愛じゃなかっただけ」である。
とはいえ、小さな子供に対して行われたこの事件の犯人に関しては同情の余地はない。私も被害者の母親と同じお気持ちである。
裁判を観終えて少しの間暗い気持ちになった。
小児性愛の人間から見る世界はどんな世界なのだろう。好きな対象が法律的に認められないという世界はとても苦しいのではないだろうか、と思う。
現在、恋人だったりが出来ない私だが、きっと見た目を整えてルドヴィコ療法みたいなので思想を書き換え、パーソナルトレーナーの指導の下で現代日本におけるモテ男性的な立ち振舞いを学べば恋人を作ったり、スコット・フィッツジェラルドが作中で語ったところによる「まるでスクリーンに映った作り物の夕日に向って歩いていくような」恋が出来るかもしれない。それが報われなかったとしても法に問われることは(よほど暴走しない限り)ないだろう。
しかし、小児性愛の人たちはそうはいかない。法律と社会がそれを許さない。そうした人たちの恋は「叶わぬ恋」としてシェイクスピア作品の様に美しく人々の目に映ることはない。