雑感

信楽で信楽ACTというアートイベントを立ち上げ参加していた事があった。
信楽町全体を使って作品展示やライブをしたりその中で移動式ギャラリーというのを作ったりとにかく信楽で住むこと作ること展示する事を根本から考えていった。
今ならもっともっと各所から評価されてもいい内容だったと自負している。

もともとは地元の窯元の人と陶芸の話がしたかったのもある。
いつも私達は「自分が生活をしている町」で「外からきた芸術家」という体で存在せねばならなかった。
もしかしたら気のせいかもしれないムードを自分達のやり方で覆したかった。

耳ざわりの良い素敵なイベントばかりが日本全国で立ち上がってひとかたまりになっていく時勢の中、毎日土で泥々になりがっつり生きていた自分達の、人間的な底力みたいなものを発露する場所も必要だった(つまりはチカラがありあまっていた)

結局信楽アクトは熱病みたいにみんなで夢中になって五年位続けた所で一回休もうという事になり、
そのまま十年以上たってしまった。
まだ私の中では終わってないのだからまたどこかで何かをやるかもしれない。。。

時々みんなでその時に作った本をみて色々考え事をしたりもしている。
陶芸家の藤本秀さんが毎年インスタレーションをしていて
その時の事をふと先日思い出していた。

以下
秀さんのステートメントより引用

「 殺風景に勃起する。」
もう二十数年前のこと 近藤等則というトランぺッターがいてそのバンドのコンサートをやることがあった。
過激な音の洪水は容量をオーバーして電源が落ち、ホールは一瞬にして真っ暗闇、続行するドラミング、ヒートアップするオールスタンディングの熱狂、劈くトランペットの生音...。
思い返すも今は懐かしい「そんなこともあったなー。」という昔話であるが、一つだけその後の私の中でしつこく色褪せないものがあって、それはそのコンサートのために作ったコピーの一行である。
‟殺風景に勃起する”  というものである。
不思議と不意にしかも周期的に浮かび上がってきて、暗示的にこの言葉の導く先がどういう境地なのか 探せと云わんばかりなのである。
それは荒廃という人為の敗北にエクスタシーを覚える野生の萌しを示唆するのか、草臥れた肉体にあっても無節操に嘶く男根の如く枯れるべしと云っているのか、とか未だ手さぐりの愚考が瞑想中である。

殺風景に勃起するという感覚は自分にもあり私も秀さんと同じく周期的にこの言葉を思い出したりする。
感覚としてあるのは
殺風景に勃起している状態のときは良い状態だということである。
自分にとってこの時の秀さんのインスタレーションはただ在るという状態を顕現したもので私はそれに感動したのかもしれない。石を作る上でこれをやりたいと思ったのかもしれない。とにかくずっと大事にこの言葉を持ち続けている。

しかし引き継ぎ引き継ぎ
言葉は変換されていく。
自分の中を通して
自分なりの”殺風景に勃起する”をやっていけばそれで良いのだろうとも思う。

さてそろそろ文章を打つのに飽きてきたました。
また何か思いついたら書きます。

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