大分の作品をつくる前。雑感メモ。
陶芸の技法で石を作っている。
土で骨材を作りその時の最適で型を作り(型が形のないもっと大きなものの場合もある)釉薬で造形する。
焼成で重力を使って造形して窯から上がってきた所でもう一度造形する。
土、釉薬、炎
どの原料にもそれぞれにその時々の物性があり
本当は原料は統計のとれるような名前がつけられるような物質ではないからひとつひとつを一からみつめて向き合うしかない。
願うなら全部が芸術としての美しい行為では在りたい。
そしてうみだしたものに、あるベクトルからの確かな強度をもたせたい。
今までの歴史の中で存在しているものの中にもおんなじベクトルの強度だと感じることが出来るものがある。
でも持たせられたという確信の証明になるような確かな事には出会えない。
例えば死んでる人に自分は出来てるのだろうかとも問えない。
多分おんなじような景色を見たかったという所までしかわからない。
早く辿り着いて私は次の事をしたい。
次の事があるというのを信じられるからやっているところもある。
平面的な強度でも立体的な強度でも無いからこれが難しい。
余談だがやっているもの同士は会うとわかる気もする。
生きて出会えた人とは話す事が出来るじゃないかというのに最近気がついた。
だいたいは1人で孤独にやってきてしまって傷だらけだったりするので生身の自分は驚く程嬉しくなったりする。多分嬉しそうにいっぱい話したり甘えたりしている。
今の所私は毎回一からでなおし原初で向き合える原料を組み合わせて原初の作り手になってつくっている。
これを現代人として物凄く冷静に複雑にやる。ここの言い方がとても難しい。ただ原始に戻ったり宇宙を考えたり量子力学を考えたりする事では無いのだけどじゃあ何っていわれるとただ生み出すための必然をやっているのだとしか言いようがない。
頭で考えているうちはただあるだけのものと冷ややかに付き合わないといけない。
でも頭で考えている事の良い事は小さいながらも答えみたいな事が言葉として見つかり少し区切りがわかる事だ。
一旦ここで良いと問いに対する線をひける。
逆に言えば頭で考えないと小さなひとつひとつも自分は終わらすこともできない(つまりは作れない)
だからここまではものを作る事の本質ではない。
何か存在させてそこにこそ本質が在るべきだ。
私の場合はひとつひとつを誠実に終わらせて積み重ねたものを物質(石)にして割って見せるまでが本質なのだろうと思う。
ただカノンみたいに積み上がったもの。
元来は喜怒哀楽の支配する生身の身体が関与していくことできっとバランスをとってくれる。
人間の関与したものを作る事ができる。
ぐるぐる回せるのは人間のできる事の一つだ。
ぐるぐる回して遠心力をつくり遠くに飛ばしたい。
遠心力を考える時回っている軸がないと飛ばされすぎて多分死ぬ。
自分を信頼できず回す事が出来ても手を離して飛ぶ事ができない時はずっとずっとぐるぐる考えているだけで存在が無力過ぎてただただ苦しい。
これはこれで時間切れになるか疲れて回せなくなったりする。
飛ばされて死ぬ事は大人になった今怖いが全力でまわして飛ぶ事は決めた。
多分この程度では死なない。
回すのは自分だが
その回し方では飛べない事や私を死なすような手の離しかたをしないように見守ってくれている他者がいる事も良くわかった。
山にある石は殺風景だ。
一連の流れは川の石のようであり人間にとっては豊かだ。
海の石はもっともっとカラフルだ。
多分そこが全部の何かだ。
実際の色がカラフルという意味ではない。
カラフルな石をみたいからやっているんだと自覚はできた。
作品が出来て眺めているときあれ?出来たかも?と思うけれどすぐに気のせいなきがしてくる。
また殺風景な山にワープしている。
作品が出来た時なんて作家にとっては一瞬でもある。
自分が過ごしてきてこれから過ごす殆どの時間は殺風景な世界だと腹を括った方が良い。
どこまで自分は正気で殺風景をみつめてられるのか。
自分がわからないだけでもう既に正気ではないかもしれない。
このまま生きてられんのか位の切実さは確実に在る。
わたしの生身が仮に強くてどこまでいけるのかやってみたいのならやってみればいいだけでもある。
これさえも言葉に出来てなかったのでここに辿り着くまでも長かった。
自分で認識しているよりだいぶ傷だらけだった!!!
ここまでは考えて身体を使ってきたきがする。
いつも通り。
平気でやる訳ではない。
もしかしたらチカラ尽きてこれが最後かもしれない。
ここまでが人間が1人でいけるスタンダードの臨界点なんだと感じている。
いつも山にいたから気づかなかった。
でも山の出来事を話し合える人達もいる。
そこは自信持っていい。
本当に。
よし川を流れていって海をめざすぞ!
海は遠い!!
そりゃそうだ!!!
っていうのが今回の私の大分の展示です。
作家として存分にそれが許される展示の場を私達はお互いの事を尊敬し続けて去年から無意識に作ってきたのだとおもいます。
思えば色々ありがたいです。
そしてこんな機会がある作家ってもしかしたらそんなにいないかもしれないです。
去年既に秘密を置いてきています。
置いてきた秘密をすぐ言いたくなる私は何を置いてきたのかを話したりもしてます!
確かなのは秘密を置いた時より逞しくなっている事。
どうなるかみててください。