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妊娠、出産、子育て、とか。



意味や目的を明確にしないと気が済まないというタチを以前から自覚はしていて、この欲求はどこから来るのかといつも不思議に思っていました。最近になって「洞察系HSP」という概念を知り、その長年の疑問の答えが「なぜなら洞察系HSPだから」という、答えになっているようななっていないような答えではありますが自分の中で「じゃあしょうがないか・・・」という感じに今はなっています。


「洞察系HSP」というのはどうも、共感や情という漠然としたものより理論や理屈が前面に来てしまうという傾向もあるようで、思い返すと、妊娠や出産、子育てに関してもそんな感じでした。


実は「第一子を妊娠してみようと考えた理由」は、「そういうことでもないと使うことのない臓器をわたしは持っていて、そしてそれがもし使えるなら使ってみたいから」というもの。使う機会がなければ別に使わなくてもいいし、使おうとしたけど使えないならまたそれでもいいんですが、使う機会があって、使ってみたら使えたから使ってみた、という感じなのです。コドモが欲しかったから、というよりそういう理由。「第二子を妊娠してみようと考えた理由」は「第一子がお兄ちゃんになったらどんなふうなのか見てみたかったから」です。


というようなことを数年前にもあるブログで書きました。するとそれがわりと公の場所に取り上げられてしまったため、とてもたくさんの誹謗中傷コメントをいただいてしまいました。その多くは、妊娠出産をバカにしているとか、それがしたくてもできない人の気持ちがわからないのかとか、傷つきました、悲しいです、とかいうもの。負のエネルギーみたいなものが恐ろしすぎて一切の反応はしませんでしたし、少しのコメントは見たものの、早々に見るのをやめてしまいました。


わたしから言わせてもらえば、どうしてそこから「妊娠出産をバカにしてる」とか「それがしたくてもできない人の気持ちを踏みにじっている」とかいう解釈ができるのかと。わたしはそう考えて、そう考えたから自分のカラダを使ってやってみた、というだけ。それを勧めもしてないし、それができない人はどうかと思うとも書いていません。どうかと思う、と書いてあるかのような解釈をしてしまっているのは「自分」だということになぜか気がつかない。それに、不愉快に感じたならスルーして今後は読まなければいいし、わざわざ批判コメントを書いてしまうならその心情を自己分析した方がいい。余計なお世話だけど。傷つきました、悲しいです、も同じ。わたしが意図していないところで勝手にそう解釈して勝手に傷ついたと言われても知らんがな、です。


コドモへの愛情に関してもわたしは「十月十日お腹にいたから」「血がつながっているから」「お腹を痛めたから」みたいな理由ではないと考えています。何年も一緒に過ごしたり、離れていてもその子のことを思ったりする時間が“コドモへの愛情”と呼ばれるものになるのであって、でないと、産院で取り違えていましたよ、ってなったときはドライに「じゃ交換しましょうか」「どおりで愛情がわかないと思った」ってなるよね、と思う。でもそうならないで苦悶するのは、その子に対して愛情が芽生えてしまったからですよね。そうなると、本当に血がつながってるかどうかやお腹をいためたなんてことはほとんど関係がない。


なにかと「そこに愛情があるべきだ」と考えたい人が本当に多いんだなと思います。妊娠、出産、子育てについては特にそう。でもそういうところを「それってこうでしょ」と(自分では)核心を突いたことを言ってしまうので、やっぱり周りの反応としては「いやそうかもしれんけどそれ言わなくてよくね?」「今、言わなくてよくね?」「そんな言い方しなくても」みたいになっちゃうんだろうなあ


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