こんなにやってあげたのに。
何ごとも、「こんなにやってあげたのに」「こんなにがんばったのに」とあとから思わないならやってもいいけど、思うならやらないほうがいい、と考えています。
わたしの解釈では、「やってあげた」には「わたしがやりたかったからやった」ではなく、「それほどやりたくなかったけどやらされた、やらざるを得なかった」というニュアンスが含まれてます。「やってあげたのに」「こんなにがんばったのに」のあとには「なのに、それに見あった見返りがない」が続く。まとめると、「こんなにやってあげたのに」=「それほどやりたくないことをがんばってやったのに、それに合う見返りがないなんてひどい、悲しい」。
「こんなにやってあげたのに」「こんなにがんばったのに」とあとから言わないなら、やる。仮に、思ったとしても意地でも言わない、という覚悟で、やる。わたしは、ですけど。
これをやり始めた記憶があるのは、息子の習い事には保護者の当番が必要だと言われたとき。当番なんてイヤすぎて、息子には保護者が当番をしなきゃならない習い事なんてやめろとさえ言いました。親だったら、保護者だったらガマンしろとか、愛情があるならできるはず、苦にならないはず、みたいな理屈がわたしには理解できません。今でも、どう考えてもムリ。やりたい人はやれば?としか思えない。それでも圧力をかけてくる人というのは、自分がイヤだけどやってる(やった経験がある)人だなあと。自分が楽しくてしかたがないことだったら、他人に対してムリヤリやらせようとはしないもんです。言ってくるとしても「えー、楽しいよ?やらないの?もったいなーい」ぐらいです。圧力をかけてくる人は、わたしもガマンしてやってる(やった経験がある)んだからあなたもやりなさい、って言ってる人です。ちなみに習い事の当番はオット氏がフルで担当してくれました。わたしは一切かかわらずでした。それならそれでいーじゃんと思う。
習い事の当番は特に、「できないことはないけど、続けていたら確実に『こんなにやってあげたのに』ってあとからグチグチ言うやつだな」と即、気がつくことができたパターンです。コトが大きすぎて、キョーレツに「ヤダ!!!」って思ったので、明らかだったんです。
でもコトが小さかったり、自分で「やるべき」と内面化や習慣化していると、気づけないことが多い。
たとえばわたしでいうと、食べた後の食器洗いがそうでした。食べた後は洗う、というのが一連の流れになっていて、自分の中で習慣化していたので、食器洗いのユウウツな気分にもなかなか気づけなかった。食べたあと、「洗わなきゃ(-_-;)」と気分が沈むことに気がついたとき、「でもやらないとオットになんて言われる(思われる)か・・・」とすぐにやめることができませんでした。結果、特に何も言われなかったんですけどね(思われてたかもしれないけれど)。
すぐにやめることができない、でも自分の気持ちに気がついてしまった、というときはとりあえず「ああ、わたしはコレがイヤなんだな」でいいと思います。まず自分の気持ちをわかってあげる。これがイヤなのね、と意識する。イヤだと思ってはいけない、ではなく。現状を変えることができなくてもとりあえず、イヤなのね、と思う。思うだけです。
そのあと、じゃあどうするか、を考えていきます。翌日に持ち越す、食洗器を使う、誰かにやってもらう、とか。もしオット氏に「なんで洗わないの?」ってたずねられたら「好きじゃないから」「気が向いたら洗う」と答えよう、とかも考える。「なんで洗わないの?」が単なる疑問ならそれでいいし、「洗えよ」という意味ならこの人との生活を考え直そう、とかも考えました。この先、食器洗いも夫婦関係も避けては通れない道です。たかが食器洗い、されど食器洗い、そうして日々の小さいことを快適にしていかないと、食器洗いだけじゃなく、彼自身も彼との生活もキライになってしまう。
わたしには今でもきっと、「これイヤだ」に気づかずやってしまっている小さなことがあるはずです。これからもそれを見つけてはつぶすとかスルーする、という作業をくりかえしていくんでしょう。
「こんなにやってあげたのに」「こんなにがんばったのに」と言いそうなものはやらない、という選択をすると、人生が快適になるかわりに誰かから嫌われる、うとまれる、怒られる、機嫌を害される、という恐れもあるので、それを強要してくるような人とはかかわらない覚悟も必要になってきます。誰かとの縁が切れることも、「わがまま」「自分勝手」と後ろ指をさされたり、自分自身で罪悪感にさいなまれることもある。ムリをしてでもやればよかった、と後悔することもあるかもしれません。でも、それが晴れたあとは気分が軽くなり、人生が快適になることの方が大きい、と思うのです。
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