『見た目に無頓着な息子2のはなし』から見る洞察系HSPのアタマの中
このあいだ書いた文章を読み返して、
「こういう考え方の変遷をたどるのが
まさしく“洞察系HSP”なのかも」
と思ったので、シェアします。
とにかくややこしく、
考え方がいろいろな方向に
わたってしまうんですよね・・・
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『見た目に無頓着な息子2のはなし』
息子2はハタから見ていると、
「もしかすると、ハダカでなければいい、
くらいに思っているのかもしれぬ」
と思えるくらい見た目に無頓着。
息子2が服に望むことはおそらく、
自分にとって触感がいいことと
自分の好きな色であることぐらいで、
ヨレヨレの靴下やボロボロの靴を、
へーきで身につけ続ける。
そんな彼に対して、
わたしは一切、何も言わない。
以前は、
「もうちょっとなんとかすれば?」
「見た目が悪いよ」みたいなことを
言いかけたけれど、
それはわたしの価値観の押し付け。
たしかに見た目は大事。
人は見た目で判断される。
けれどそこに興味がない、
必要性を感じていない人に
いくら言ってもピンとこないし、
興味がなく必要性も感じていないことを
「そういうもんだから」と
やらされるのは、苦痛でしかない。
見た目に頓着しないからといって、
それが直接の死因にはなるわけでもない。
関西弁で言うと、
「オシャレせんかて死なへん死なへん」
(なぜか二回くり返すのが特徴)
もちろん、最低限の身だしなみや
マナーみたいなものもあるけれど、
そのことで失敗するならすればいいのだ。
息子2は、自分が痛い思いをしないと
わからない子なので特に。
言ってあげるのが優しさ、
それが親というもの、
それが親の役目、
そんな考えがあるのもわかってはいるし、
それをしないことが、
親としてどうか、や、冷たい、
ただの言い訳、などなどと
言われる所以であることも知っている(笑)
だけど、
それらを全部ひっくるめて考えて、
「でも、言わない」。
それがわたしの考える「優しさ」だから。
彼がどうするのかをジッと見ている、
それがわたしの「優しさ」。
相談にはいつでも乗ることは示しておく、
助けを求めてきたらいつでも応じる。
でもそれまでは、ただ見ている。
この「言わない」という行為が、
今後、吉と出るか凶と出るかなんて
わたしにはわからない。
確信があるから「言わない」を
選んでいるわけじゃない。
モノゴトの結果なんてすべて、
自分か相手が死ぬまでわからない。
わからないけど、
わたしは、あらゆることに関して、
つねにその瞬間の自分の手持ちのカードの
ベストを選んでいる。
というか、人はみな、そのとき考えうる
選択肢の中から、ベストなものを
選びつづけているから、
あとから思うとこうすればよかった、とか、
ましてや他人がどうこう言うというのは、
結果がわかったあとの後出しジャンケン。
なんとでも言える。
息子2にアドバイスしてあげること、
教えてあげることはカンタンだけど、
「自分が安心したいだけではないか?」
「わたしは教えた、と
保険をかけたいためではないか?」
とわたしはいつも思ってしまう。
親としてアドバイスする、教える、
と言いながら実は、
「ちゃんと言ったんだから
わたしは悪くない」という気持ちが
隠れていないとわたしには言い切れない。
どこか「それを言うことによって、
自分が安心したいだけなのでは?」
という自問があり続けている。
だから本人が気づくまで、
黙って見ているだけなんです。