20240212きくダムのきおく
SideM PRS天地四心伝のすぐあとでした。
鬼族あけなのでつめがあかい!!!うれしすぎる~~!
はしゃいでいっぱい手を描いています。こんなのなんぼ描いてもたのしいですからね。
トークで1日目の篝をみて、2日目燈の幕引きをちょっと考えたっておっしゃっていたのにめっっっちゃわかるな……。それ、それがとても知りたかった。あれをみてしまうと救いが欲しくなってしまうと思って…でもきっと菊池さんはご覧になるだろうなあとも思って…2日幕が開いてあーって思って……………。
燈とてもよかったな…イラストのイメージ通りで、素敵で、より静謐なかんじもして、うれしかった。
左上に描いた「ここにいいたいことがある」のお話がすごく好きなんですよ。
菊池さんのなかに言いたいことが「ある」のに、そのことをずばりと言葉にできないもどかしさをお話してくれたんだけど。
それを表す手のかたちがとても好きだったの。
菊池さん、以前映画観に行くのひとりでいいとお話していたことがあって、終わった後に感想言い合うのがちょっと苦手みたいなニュアンスで。観たあとにその気持ちをもってかえりたいのよ、ひとまず自分のなかで消化したいって話してて、へえええって思ったんですよね。
なるほど繊細だ……。
わ、わたし映画観た後すぐ語りたくてこーでこーでこうだったよね?ってすり合わせしたくて、なんなら観ながらもうガツガツ考えてるからぜったいきくちさんと映画いけないやつ…!!(ふつうにいけないからだいじょぶ)
「ここにある」ことがすぐに言葉にならない話と、この映画の話はリンクしてるように思った。
映画見終わって自分の解釈が固まらないうちに他者の表現で語られてしまうと、それが自分の気持ちかどうかわからなくなってしまう、のかな。固まっていないうちに踏み込まないで。雨上がりのやわらかい地面に長靴でぐちゃぐちゃ入ると足跡がいっぱいついちゃう。他人のあしあと。自分の足跡をつけて、かたちをたしかめたい。わ、尊い。
たとえばきくダムのコメントでも、「○○みたいな?」って提示したときに、「そう!」っていうときと「うーん?」っていうときがあって、後者のときはもっと近しい表現を探しているみたいな…。
きくちたけるさん、一貫している。すき。
私にとって、作品を観てこう思った~~!ってうのはもうどうしようもなく出てきてしまうもので、それはなんか反射なんだけれど。
もっと根本的な、自分のここにある感情を表現する、ということについては私も同じかなって思う。たとえば菊池さんに対してどういうところが好ましく思うのかな?どうしてそう思うのかな?それって何に似ているのかな?とかめちゃめちゃ考える。
その場合の「ここ」の中心は「好き」なんだけど、その周囲に渦を巻いている感情に含まれているものが何なのかを知りたい、けれどとうてい全部を解明できる気もしない。
好きな作家さんの表現があって…。
『ああだこうだと繰り返しなぞるように(何作品も)彼らを書いていたけれど、きっとそのときの私にちょうどよいかたちをしていたのだと思います』
という…うーん、これだけだとちょっと端的すぎるな。読んだときにパキンと割れるような衝撃があったのだけれど。
作家の考えていることが中心である「ここ」にあるとしたら、その周囲をぐるぐると取り囲むのがいくつもの作品なんだと思ったの。複雑な「ここ」の中身を一言で言い表せるようなど真ん中の表現なんてなくて、たくさんの言葉はいつでもニアミスを通り過ぎる。周囲をぐるぐるとまわるそれは、きっと円の形を描くんだろう。それはまるいかたち。
菊池さんが両手でつくったまるいかたちに、うん、って思っちゃった。
ああ、わかるなあ、知ってる。
それをねえ、わたしたち、なんかいもなぞっていくんだよ。
これもまた、ひとすじの。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?