4年前、私はひとり女川町にいた
4年前、大学2年生だった私は、ひとり宮城県女川町にいた。
リアス式海岸の港がある、穏やかな町。
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阪神淡路大震災の翌年に生まれた私にとって、震災は知ってるようで知らない存在だった。
あの日、1万人が暮らしていた女川町に、20mの津波が来たらしい。
900人以上が死者・行方不明者となったらしい。
9割近くの建物が被害を受けたらしい。
ニュースやインターネットで見る数字のインパクトはたしかにすごかったが、正直現実としてピンと来ていなかった。
私はまだ震災を知らなかった。
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だが、石巻から小さな電車に乗ってきて、女川に着いた私は、過去と未来が共存している様子に衝撃を受けた。
新しくつくられた市場や商業施設がある目と鼻の先に、かつて交番だったものが横たわっていたのだ。
後ろを振り向けば、駅があって、お店があって、人々が生活している。
でも目の前には、傷跡と言ってもいいような光景が広がっている。
そのギャップが凄まじくて、私にとっての「震災を忘れない」とこの人たちにとっての「震災を忘れない」は、まったく重みが違うと感じた。
「忘れたくない」ではなく、「決して忘れることなどできない」なのだ。
また、高台で石碑を見つけた。2014年の女川中卒業生が立てたものだ。
東日本大震災では、多くの人々の尊い命が失われました。地震の後に起きた大津波によって、ふるさとは飲み込まれ、かけがえのないたくさんの宝物が失われました。
「これから生まれてくる人達に、あの悲しみ、苦しみに再びあわせたくない!」
その願いで「千年後の命を守る」ための対策案として
①非常時に助け合うため普段からの絆を強くする。
②高台にまちを作り、避難路を整備する。
③震災の記録を後世に残す。
を合言葉にこの石碑を建てました。
ここは津波が到達した地点なので、絶対移動させないでください。
もし大きな地震が起きたら、この石碑よりも上へ逃げてください。
逃げない人がいてもここまで無理矢理にでも連れ出してください。
家に戻ろうとしている人がいれば絶対に引き止めてください。
今、女川町はどうなっていますか?悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして信じています。
実際に高台に立ってみて、「本当にここまで津波が来たのか?」と思った。
現場にいて想像が追いつかない。でも本当にきた。いろんな感情が渦巻く。「今もし津波がきたらどうする?」「海沿いに大切な人たちが暮らしていたら、自分は助けられるのか?」
わからなくて、こわくて、どうしようもなくなる感覚。
だけど、生きていくためには、覚悟を決めなければならない。
大切なものを唐突に奪われたとしても、前に進まなければならない。
もし自分が、10年前の女川町にいたとしても、精一杯人を助けられるようになろう。最善を尽くせる人になろう。
そんな気持ちで、2万人以上の命が失われて存在している今日という日を過ごしている。
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