「松っちゃんへのいじめ」
文春報道に対し、松本人志信者が擁護。
「松っちゃんへの いじめ」
というパワーワードを見たwww
風刺や皮肉をたしなむ者にとって、こういうのが一番くやしい。
「天然物には勝てん」のだ。
すごく馬鹿。
松本人志氏の芸は、テレビでいじめを実演することであり、その勝者ぶりが信者を引きつけてきた。
文春報道に対し、信者が「被害者」を訴求したら松本人志氏の芸が台無しになってしまう。
本人は、あくまでも余裕と圧を漂わせ
「やる気が出てきたなぁ~」
「とうとう出たね」
などと大物イメージを守っている。
女集めも反論も「下々にやらせる」これが大物の大物たる大物しぐさ。だから「松本、動きます」という(普通だと恥ずかしい)台詞も成り立つ。
論破王・西村博之氏と同じ類の「大物感」とでも言うか。
あくまでも実力ではなく、虚勢をみせてネットで軍勢を集め、多数決で「不当に」勝利を宣言する。この「不当に勝つ」が大事なのだ。
言ってることが正しくてはいけない。
倫理に反し、論理を無視し、強者に媚び、狡猾な手段で実体のない勝利宣言をすることに意義がある。
いじめられ君は、TVを視て、ネットで支持を表明している限り、被害側を脱することが出来る。だから熱烈支持なのだ。本当に話術の鬼才とか天才映画監督とか思ってる奴は居ないだろう。
吉本の笑いは「高尚さを排した労働者階級の笑い」「大阪より周辺地方人への分かりやすい笑い」と言われてきた……関西演芸史において、落語vs漫才や、新喜劇と在阪局の関係などの話で。
松本人志氏の価値もまた、歴史的な吉本風味の延長線上にあって、低学歴やいじめられ君に勝ち組気分を味わわせるために、いじめをやっている。学校・いじめられ君・テレビの三角形の中に「肉屋を支持する豚」のパラドックスが形成されているのだ。
また、根拠なき勝利・実態なき大物しぐさは、信者集団があって初めて成り立つ。ここには参加型、インタラクティブ性といったネット時代への適性があるわけだ。
アンチヒーロー、中二病、あたりと地続きの、現代社会を風刺した知的な芸だ。
(そう自分に言い聞かせていなければ恥ずかしくて精神的に参ってしまうだろう)
傍若無人や露悪趣味をウリに、実態なき大物として振る舞い、会社や業界に守られる………ここに大衆の憧れやカタルシスが生まれる。
「性的暴行以上の笑いを与えてくれた」
「あーやっちゃったな文春」
力ある者の悪事は裁かれない、と書くことで、能力のない人も全能感を楽しめるわけだ。新興宗教や教職に所属する快感と似ている。
ただの被害者が、バーチャル空間では加害側に立てる、この便利さが「肉屋を支持する豚」を様々な分野に作っている。
松本人志氏といじめは、このように不可分の関係にあり、人気の根源でもある。
文春砲に対し「松っちゃんへの いじめだ」と叫ぶことが、どれだけ壊滅的で矛盾しているか、書いた本人は分かっていないだろう。
松本人志氏を「いじめ被害者」と呼ぶ件。松本人志氏の存在意義を揺るがす事態である一方で、「狡猾に印象操作を使いこなす」のも松本教の教義かもしれない。
やってる内に自己目的化して訳わからんようになるケースは、万事によくある。
松本人志氏もまた、露悪や狡猾を演じているうち、本気で自身を大物だと思い始めたのかもしれませんね。
松本人志氏を「鬼才」だと敬愛するなら、滑ってる大物感やぶざまな弁解に対し、こちらは常識人の立場を崩さず非難し、盛大に燃やして、お送りするのが正しいのではないか?
やっさんは復帰できず逝った。
紳助師はヤーサンで退場。
八っちゃんは酒に呑まれた。
坂田師は「アホ!」と送られた。
松本人志氏にも相応のフィナーレを用意しようではないか。
我々が、笑いをこらえた顔で「なにイキッてんの大物ぶって」とスカして、ヒートアップする擁護や弁解を冷笑すれば良いのです。