美のメカニズム
人は何を「美しい」と感じるのだろう?
雑な仮説を立ててみた。
私は新聞の編集業務を介護のために退職した。
会社にいた時は、スピーカーから常時、通信社のニュース速報が流れていて、手もとには紙や画面で原稿が入ってきた。棚の上のテレビは国営放送を点けっ放し。
まるで川を眺めているように、流れていく情報にドップリ浸かっていた。
編集局の中は、通信社の放送、機械音、打ち合わせ、口論、タチの悪い冗談(そこだけ私がエース級)などが渦巻いて、ワァンと唸るような音圧があった。
TVのニュース番組では効果音として環境音が少し混ぜられますね? あれをフルボリュームで常に聞いているような感じです。
その中にいると、水に潜って泳いでいるとか、ボッチでお祭りに行ったとか、上京者の原宿散歩というか、外界の情報量が多いと、物事を客観視しやすい心境に至るのですよ。
取材記者は社交的で、役所や警察や担当業界に食い込み、相手の心理を読み、1つミスると自分がプレーヤーになりそうな危ない塀の上を歩く。
内勤編集者は使う脳が真逆で、どれだけ冷めているか、物事を外から眺めている感覚を保てるかが勝負だと思います。記者の自己陶酔や分かったつもりを濾過して、数十万人に読ませる紙面を作るには、1人で数十万人分の冷たい批判的な目を持たないといけません。
説明が長くなりましたが。
仕事中毒だった私は編集を辞めて、SNSのタイムラインに社会復帰リハビリを求めました。特定の仲間を求めず、無差別にフォローして、なるべく多くの人の声を見ることで、会社と似た環境を自宅に得たわけです。
すぐに、SNSで一定の評価を受けるようになり、それが十数年続きました。
流れていく人々の営みに対し、私が何らかの感想を書く。
それが「次の展開を言い当てる予言」になる、という形が出来てしまった。
少しだけ他人より記憶力が良く、またそれを常用する環境に置かれる。
また、主役になることがないので、目の前の出来事に心奪われない。
そうすると、人々が忘れてしまっている「近過去の類例」を思い出せるのです。
最近だと。
「セクシー田中さん」の事件で、人々が絶筆の解釈について争っていた時に、私は「おじゃる丸」を思い出して、権利ビジネスの犠牲者だと考えていた。
「ネットフェミニズム」について、左翼の社会混乱策だとか反対はネトウヨだとか争われていた時に、私は「中ピ連」を思い出して、商業的な市民運動の乗っ取りを考えていた。
ついさっきも、blueskyで友人が、ジャニーズ事務所の改名を揶揄して「アルカイダがハマスに改名しても」と書いたことに「ペッパーランチがいきなりステーキに」と返信。
返信のほうが性犯罪を含むので、麻雀で言えば翻が大きい。よな?
「ちょうど人々が忘れている、ちょっと昔の類似例」を検索なしで即答。
これでトス上げると、次に、新聞社では過去記事、ネットでは検索により、事件の構図が分かってくるのです。
こうして、近過去の記憶力で、現況の次を予想して、称賛される件。
GoogleやWikipediaが進化すれば、誰にでも可能になり、価値を失う。
………とメディアも考えたようで、私の古巣部署もリストラされたそうですが、実は違うんですな。逆に近過去記憶力が貴重になってきた。
機械による過去事例発掘は「一致する単語」に基づいています。「日テレ 自殺」で掘っても、元女子アナが出るばかり。人間だと「構図」記憶しているので「おじゃる丸」を思い出すことが出来る。
いま、ネットの素人や、メディア幹部がこぞって「単語マッチで判断可能」と誤解しているから、「構図から過去類似例」を思い出すだけで、何の事件でも数日リードして本筋を言い当ててしまう。
ニュースの話が長くなりました。
「美」や「感動」といった物も、これに当てはまるんじゃないかな。
人が「美しい」と思う物も、「実は過去に見たことがあって、しかし膨大すぎて記憶にはない」そうしたパターンと合致した時に、人は「美しい」と感じるのかもしれません。懐かしさと似ているのかも。
美術を語ると、ちょっと小難しくなりますので、ヒット曲にしましょう。
音楽には様々なパターンやコード進行があるそうです、私は知りませんが。
既に作り尽くして、今は反復しているだけ、と言う人もいます。
去年、流行った曲にソックリな物を出せば、皆さんパクリだと仰るでしょう。では40年前だと? 人口の半分以上は覚えてないです。20年前だと? まず、何となく懐かしく感じて、何が下敷きにされたのかをしばらく経ってから思い出すでしょう。
ええ、僕は「唱」を聴いて「堕ちた天使」を口ずさんだオッサンです。悪いかw
人々がちょうど忘れていた物を思い出させる。
虚を突いて、意外な別ジャンルから引用する。
簡単に思い出せるはずの近過去を誰も覚えていなくて、そこを突くと、やった奴の1人勝ちになるんですな。やられた方は地団駄踏んで称賛する。
「美」に戻りますと。
ファッションには流行の変化があります。
もちろん今は、商業的に計画されて、次はコレを流行らせよう、というのがあるんでしょうが。
ネクタイの幅やスカート丈は、周期的に伸びたり縮んだりします。
経済学におけるジュグラー循環やキチンの波と似たようなもんでしょうか。
細いネクタイも太いネクタイも、一定期間が経つと見飽きてしまい、逆をやると新鮮に見える時期がくるのでしょう。(タイトミニは飽きませんが)
色も同じですね、ダークやモノトーン、ずっと見てると飽きます。そうするとビビッドカラーやパステルカラーの出番です。
自動車のデザインも、筋の立ったのと、爬虫類みたいなのと、交互に流行ります。昭和の日産車など、角丸の振れ幅が極端で、眺めていると面白い。
美というより「流行」は、商業的に行きつ戻りつするんでしょうが。
「美」もまた、様々な形態が記憶の中に仕舞われていて「忘れた頃にヒョイと出された」物を「いいなぁ」と思うのではないでしょうか? 虚を突かれる快感、が美や感動なのかもしれません。
美意識の高い人、鑑賞眼のある人は、数多くの作品に触れてきたことで、反応できるライブラリ、蔵書数が多い。だから虚を突かれる快感を味わうチャンスが多いわけです。
虚を突かれることのない多くの人は、単に、他人がホメているのを見て迎合しているだけでしょう。だから、作品の質にかかわらず業界総出で絶賛すれば付いてきますよ、こいつらは。
優れたクリエーターは、鑑賞者と同じく過去の作品に多く接し、かつ、自分で創作に打ち込んできた経験で、過去の作品と対峙し、解釈し、自分の感情に即して過去の技法を適切に引用できる人だと思います。
売りたい、目立ちたい、過去の偉人の名前を借りる、そういう人が過去の作品を十分に理解せず、「忘れた頃に出す」だけを使いこなして出してきた模倣作には、うんざりしますね。真似た作者名まで出して自分を同一視しているような物を見たら、むかむかする。
過去の作品や技法をよく学び、自分の感情やテーマに応じて、的確かつ意表を突く形で引用する。ちょうど忘れていた頃に、的確な形で再現されると、非常に気持ち良いのではないでしょうか?
これが「美」のすべてだとは思いませんが、人間の脳や記憶は未解明部分が多いほど、膨大なデータが無意識なままに蓄積されているようです。
また、時間や老化や死からは逃れられず、過去に戻りたい願望は常にあります。
「懐かしい」「あったあった」「ほっとする」
脳の中に無意識に蓄積された過去に、合致する物を適切にブツけられる。
ちょうど忘れていた物を思い出さされる。
この快感が、美や感動の、けっこう大きな部分を占めてんじゃないかな、と思います。
人が忘れていた近過去を適切に引用する。ただの引用やパクリじゃだめですよ、的確さや必然性を伴うと、感動するんじゃないでしょうか。
※ニュース分析の話から始めたように、私は美術や芸術について高等教育を受けていない門外漢です。もし、こういう内容が、定説や先行研究にあったらごめんなさい。
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