母を亡くして
grief careには書くことがいいとどこかで聞いたので、まとまらないけれど、とりあえず書いてみようと思います。
2025年1月13日の午前中、6年の闘病生活を終え、母は旅立ちました。53歳でした。
「今年も誕生日を迎えられそうだね」「孫の顔を見るのが楽しみだね」と話していた矢先のことでした。
家族全員、まだまだ生きてくれるものだと思っていました。けれど、1月13日の午前中、状態が急変し、呼吸困難に陥りました。
母がどんどん白目になり、気を失っていく中、必死で泣き叫びながら呼びかけ続けていました。
必死で、先生に「何かできることはないんですか」と聞いたけれど、返ってきたのは、「もうできることはないかと思います」という答えでした。
怖くて、怖くて、怖くて、必死で呼びかけ続けました。母は、最期の力を振り絞って、私たちと目を合わせて、瞬きで(聞こえてるよ)と返事をしてくれました。その直後、母は息を引き取りました。
姉の泣き叫ぶ声、父が蹲り絶望で咆哮する姿。
もう何も考えられませんでした。
ただ姉を抱きしめ、父を抱きしめました。
それからのことはよく覚えていません。
冷たくなった母の手を握り共に眠り、気づいたら通夜と葬儀を終えていました。
火葬のボタンを残された家族3人で押し、泣きながら「一緒に頑張ろう」と言いながら体を震わせていました。
いまだに、私の時間は止まったままです。
母は、自分のことより人のことを心配するような、優しくて、一緒にいるとひだまりの中にいるようでした。とても強くて、あたたかい、素敵な人でした。
あの日からずっと体調を崩しています。あの日からずっと母の夢を見ます。あの日からずっと、絶え間なく胸を刃物で刺され続けているような感覚がします。
それでも、変わらず夜が来て、また朝がやってきます。私たちのことなんて関係なく、日々が全自動で流れてきます。
いつになったら普通になるんだろうという自分と、普通になりたくない、悲しみさえ忘れたくないと思う自分がいます。
本当にうまくまとまらないけれど、これが今の気持ちです。
それでも、母と母に関わってくれた人、母のために泣いてくれた人には感謝しかありません。
母は、最期まで、一生懸命生きてくれました。
この数日で、たくさんの哀しみと、たくさんの愛情にふれました。人の愛おしさを、肌でやっと理解しました。
人は生きてるようで生かされていて、母が他界した今も、私たちは母に生かされています。
こんなに哀しいから、こんなに寂しいから、ゆっくりだけれど、きっと私たちはまた歩いていけると思います。
今は何も気力が湧かず、何もできません。
それでも、ただ愛だけを捧げています。
母の子供で幸せでした、今も、そしてこれからも。