言葉の端々に宿るもの
久々の長文。感じれなかった感情の忘備録。
NVCのプロセスを経て、感情の奥にある本当に
必要だったもの、本当に自分が持っているものに
スポットライトを当てたい。
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残業で遅くなりひどく疲れた帰り道、
無性に炭酸が飲みたくなった。
近くにお店はなく、
あるのは暗闇に光る自動販売機のみ。
少し迷った後に、Suicaで炭酸を購入。
「Suicaで買えるって便利ぃ〜」
そう思ったあとに次いで出た思考は、
「昔は自販機なんかで買わなかったのにな」
だった。
喉を通る刺激を味わいながらも
〝自販機なんかで買わなかったのにな〟
その一文が脳内を一周して、
ザラりとした違和感に変わった。
私は自らの思考に何を感じたんだろう。
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〝自販機なんか〟という表現がどうも引っかかっる。
自販機を卑下してる?
飲み物は正規店で買うものと思ってる?
(むしろ正規店って何)
自販機が愚者ならば、賢者はどこで買うのだろう。
割高なコンビニも同族なのか、
卸値に近いスーパーで買うのが賢さなのか…。
散々自問して出てきた1つの答えは
「自販機が苦手」だった。
そしてその理由は
「灯りを頼りに虫が集まるから」。
つまりは
「ボタンや取り出し口に集まる虫が怖い(から買えない)」
というのが正確な表現だった。
そして出てきたもう1つの答えは
「1円でも安い店を巡って買い物行脚していた
祖父母への嫌悪」
だった。
祖父が運転出来ていた頃は
祖母と2人でよく買い物に出かけていたし、
幼少期はそれに同行していた。
(おひとり様1点、とかの1人に換算されていた)
1円でも安くていいものを、と
転々と続く買い物行脚は
車酔いする私にとっては苦痛でしかなかったし、
早く帰って遊びたくて退屈だった。
そんな祖父母は〝日本製〟や〝純正〟にこだわっていたし、遠くても安く買えるスーパーがあるのに
近くで定価で買うことは「愚の骨頂」と言っていた。
その祖父母が私の意識が及ばないところから言う。
「自動販売機で買うなんて高くてもったいない」
それが私の脳内で
〝自販機で買うなんて〟
という思考に変換されたのちに、
その自動思考に対しての反発心・嫌悪感から、
ザラりとした違和感が生じていたのだった。
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つまり私に起きていたことは、
「炭酸が飲みたいが虫が苦手なので
自動販売機で買うのは怖い」
という感情。
そして
「ここの自動販売機は虫がいないので買えた上に、
Suicaで買える便利な世の中に対しての感動」
ただそれだけだったのだ。
自動販売機に対する批判は1ミリも必要なかった。
目まぐるしく過ぎる日々、
なかなか自分の言葉や
それを発するに至った思考を咀嚼し直すことは難しい。
(し、こんなことに思考を巡らせる民は
少ないのかもしれない)
だが、もしこの時隣に大事な友がいて、
「自販機なんか…」と発言していたら、
無駄に大事な人を傷つけていたかもしれない。
もし震災が起きて、日常が崩れ去ったとして
暗い夜道の心細さや喉の乾きに苦しむ時、
自動販売機の有難みが染みまくるかもしれない。
(無人でいつでも飲み物が、
しかも温かい飲み物が飲めるって凄いことよね)
大事なことは、
「周りを気にして自分の発言を抑える」
よりも、
「その発言をするにいたった思考に思いを巡らせ、
自分の言葉に変換して伝える」
ということ。
自分の思いや考えを話しているようで、
誰かから習った言葉を無意識に使っているのが人間だから。