小豆島が嫌いだった私が島のために働きたいと思った話。
2022年9月28日。急にやりたいことが湧いてきたので、気持ちがホットなうちに今の気持ちを書き留めてみる。
大嫌いだった小豆島
私は小豆島出身の父と大阪出身の母の元に生まれ、18歳まで島で育った。
都会で育った母からしたら、島は刺激が足りず、閉鎖的な場所だったのだろう。
母からは島の悪口を聞くことが多く、「島の外のいろんな世界を見て、チャレンジしてほしい。」という言葉を何度も投げかけられた。
夏休みや冬休みになると母は必ず大阪に私たちを連れて行き、新しい経験をたくさんさせてくれた。
母のおかげで私も外の世界や初めての経験が大好きになった。
そのため、島での生活はつまらないと感じていたし、島外の初めて会った人に島出身だと言うことを恥ずかしいと思うぐらい、自分の故郷に誇りを持てていなかった。
「こんな田舎くさい島を早く出て、もっと都会で暮らしたい」
そう思って生きていた。
島の未来のために働く父
私の父は元々母と同じく大阪のアパレル会社で働いていた。
ただ入社後3年で退職し、やっぱり小豆島が好きだと母を連れて島に帰った。
小豆島が大好きな父にとって、子どもたちが島嫌いになっていることは、とても悲しい出来事だっただろう。
そんな父は「子どもたちが大人になった時に帰りたいと思う島にしたい」という願いから、私が8歳、妹が5歳の時に無職になり、2年間中小企業診断士やITの勉強をしていた。
まだまだお金が必要な子どもたち2人を育てながら、無職になって自己投資するなんて、今考えるとすごい決断だったと思う。
それぐらい叶えたい夢だったんだろう。
それからの父は経営コンサルタントになり、その後、島のホテルグループの代表になり、毎日夜遅くまでほぼ休みなく働いた。
そのせいで学生時代の父との思い出はほとんどないし、父と母の仲は悪くなるばかりだった。
あの頃の私は、なぜ父が家族との時間を犠牲にしてまで、働いているのか全く理解ができなかった。
改めて気づいた故郷の良さ
大学生になって横浜に住み始めた私にとって、日々の生活はとてつもなく刺激的で楽しい毎日だった。
飲食店めぐりやショッピング、旅行などを楽しみ、遊びまくる日々。
就職してからは東京・青山勤務。
元々興味のあったファッション業界に携わることになり、さまざまなブランドや会社の裏側を見ることができた。
最新トレンドやクリエイティブの最前線に立つ人々の話を聞く毎日は、かなり刺激的だった。
そして今はベトナムホーチミンという急スピードで発展する街に住んでいる。
高層ビルやネオンあふれる街並みに、見たことのない景色と初めての体験の連続。毎日が楽しい。
しかし外に出たからこそ分かる故郷の良さにも気づいた。
当たり前のようにある自然。人の温かさ。世界に誇れる島の特産物や観光地の数々。
島出身であることを周りの人に伝えると、今や羨ましがられるようになった。
これは父が私を含めた世界の人に伝えたかった、島の良さであり、必死で島のために働いてきた証なんだと気づいた。
大人になってようやく、どこにでも当たり前にあるわけではない島の良さに気づいたし、父のことを誇りに思えたのだ。
小豆島や瀬戸内を世界にアピールするお仕事がしたい!
私は何に情熱や人生をかけたいんだろう...。とずっと考えていた。
でも実はそれはすぐそこにあった。私の故郷だ。
小豆島を出たからこそ、外国に住んだからこそ分かる日本や島の良さがある。
日本ほど安心して生活ができ、食に恵まれ、移り変わる四季や様々な地域特性を気軽に楽しめる国は他にないと思う。
日本はオワコンということをよく耳にするが、私は故郷を見捨てたくないと思う。
私は日本の中でも、まずは自分の故郷小豆島や瀬戸内の良さを世界に発信していくことに携わってみたい。
島の未来のために走ってきた父のバトンを未来につなげたいと思った。
どんな形で携わるのかは現時点では分からないが、できることから一歩ずつチャレンジしてみたい。
言霊という言葉があるように、夢は言葉にすると現実になる。
そう信じてまずは言葉にするところから始めてみる。
父にはまだ恥ずかしくて言えないが、いつか父に胸を張って「島の未来のために働いているよ」と言える日が来るまで。
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