「ごめんなさい」という自責の念 (3/6)セクシー田中さん問題
「人の命」と「続作の完成」が永遠に失われる事になったセクシー田中さん事件。最後の言葉は「攻撃したかったわけではなくて。ごめんなさい」でした。この最後の瞬間でも諦めぬ第三者報告が必要で、「削除後生存ルート」はネットの自己改善にあると、前回述べました。
今回は「ごめんなさい」が、何を謝罪しているのか、情報の少ない報告書から推測したいと思います。結論は、「孤独な造反」の落とし穴にあります。
まず「孤独」と「造反」の2つに分けて説明します。
原作者は、自身の意向(=投稿削除)に従った担当編集が、削除不可とする出版社と対立した瞬間を見て、「孤独」を選んだと思います。この担当編集は10年近く原作者を担当し、2017年には他社に移った原作者と交渉して自社に戻ってもらい、その後「セクシー田中さん」を一貫して担当しています(出版社報告書p.12)。その担当編集を原作者が守るには、音信不通として「孤独」にならなければならなかった。そう想像しました。
また体制に逆らう「造反」は、出版社の「削除不可」の指示に逆らったという意味です。何故逆らってまで、削除と謝罪をしたかったのでしょうか?寄り添うべき気持ちは『騒ぎにしてしまって申し訳ありません(TV局報告書p.44)』でしょうか。少ない情報から推測すると、原作者は結局は「脚本家を守ろうとした」のだと思います。翌日の「週明けの会議(出版社報告書p.55)」を待って対応する鈍重な巨大組織では間に合わない。炎上に包まれる脚本家を一刻も早く、自分の手で守ろうとして、「造反」した。そう想像しました。
つまり、担当編集を出版社から守るため、脚本家を炎上から守るため「孤独な造反」を行った。
この「孤独な造反」は、目的は他者救済でも、出版社に逆らい連絡を絶つ行為なため、「続作(=連載継続作品)」に致命傷になり得ます。これは「落とし穴」です。穴に落ちた原作者が「もう続作は無理だ」と絶望した瞬間、生きる力を失うと思います。その作品中で「一つ一つは些細でも、たくさん集めると、生きる理由になる」と語らせ、読者を応援する原作者です。それが多くの読者に届いたからこそ原作者は「生きる理由の全てが今、『セクシー田中さん』にある」というぐらい強い想いもあるのではないでしょうか。だから、それが「無理」となれば生きる力を失うのは、想像に固くありません。
単なる打ち切りなら商業作家は耐えられるでしょうが、違います。打ち切りではなく、担当編集と脚本家を守ろうとしたら「続作は無理だ」となった。リアルの担当編集と脚本家を「傷つけたくない」から行動したら、その自分の行動が、自分の内側にある創作物の致命傷になった。
原作者の優しさは作品からも読み取れますが、報告書からも分かります。脚本家とTV局Pらと面談を要請した原作者は、出版社から「脚本家が原作者の意向を十分知らされていない場合もあり得るので傷つきかねないから止めるよう」説得され、承諾しています(12月7,8日、出版社報告書p.50)。しかも、その時既に、原作者自身は傷ついていた。多忙な中の修正指示が脚本家に無視されるのですから当然です。さらに、TV局Pに嘘を付かれたと分かる(出版社報告書p.41)。楽曲無断変更で矛盾した台詞が放映されたと教えなければならなかった(11月下旬、TV局報告書別紙1、p.5 )。自分(原作者)の表記が無い事を指摘しなければならなかった(12月4日、同p.5)。などなど。
作品を我が子と例えるなら、この原作者は産みの母親です。この「母親」は子供を守る(同一性保持権)ために戦った。前述のように自分は傷だらけでも、他者を傷つけたくない人でした。故に「孤独な造反」を起こします。目的は誰かを傷つけないためでしたが、結果は我が子に致命傷を与えていた。我が子を亡くすのと、自分の過失で殺すのとは大きく違います。落とし穴にはまった母親の『自責の念』は計り知れません。これが「ごめんなさい」という言葉になったと思います。そして、優しい人だったからこそ、守ろうと必死だったからこそ、我が子を自ら傷つけた、失った絶望は生きる道を閉ざす闇になる。
「ごめんなさい」の謝意は何か、考えました。騒動を世間に謝ったのか、「攻撃」について脚本家に謝ったのか、「社との対立」について担当編集に謝ったのか。実際はそのあたりかも知れません。しかし、死に至る絶望は自責の念。つまり「命を奪った事」について「原作者の中からも亡くなった『我が子』」に謝ったことにあると思います。
この自責の念は、原作者に寄り添ったつもりですが、私の勝手な想像です。想像過多で不正確なのは、保身目的の組織にべったり寄り添った報告書しかないからです。涙も悲しみも不要です。今我々に必要なのは、原作者に正確に寄り添った第三者報告です。第三者報告なしに「削除後生存ルート」は浮かび上がりません。だからこそ、第三者報告を求める「ネットの要求」が必要です。それが結論かと思っています。
「人の命」が大切であればこそ、諦めてはいけない。
しかし各メディアは1週間で飽きたようです。常に謝罪要求し、第三者報告を要求し、それで利益を得てきたメデイアは沈黙です。今回、他者を傷つけまいとした人間の最後の言葉が「ごめんなさい」なのに、守られた人の「こちらこそごめんなさい」の一言なしに、それ以上に、その人達を守るべき組織の「こちらこそごめんなさい」の一言なしに、魂は浮かばれるでしょうか?死者の魂だけではありません。渦中で苦しむ関係者の魂もです。
ただ、両社に謝罪要求する前にすべき事がある。それを次に続けます。