世間が知らない「重複」の読み方の謎を1年追ってみた
みなさんは「重複」という言葉を「ちょうふく」「じゅうふく」のどちらで読みますか。
伝統的な読み方は「ちょうふく」ですが、2003年度の文化庁の調査では「じゅうふく」と読む人が76.1%を占めていて立場が逆転しています。(文化庁 2004)
その発表を受けてか世間では「じゅうふくと読むやつは教養がない」など長年散々言われています。
そもそも、なぜ「じゅうふく」が増えたのでしょうか?
世間では正しい/正しくないといった議論ばかりで原理的な説明がろくになされていません。嘘の説明が無批判にまかり通っているぐらいです。
この「重」の「ジュウ」と「チョウ」の読み分け事情に疑問を思い、1年も色んな本を読み調べていたので、世間の誤った説明を解説、疑問の答えにつながりそうな論文を紹介したいと思います。
重い=ジュウ?重なる=チョウ?
よくある間違い
「ちょうふく」が正しい理由として上のように意味による読み分けがあるかのような説明を目にします。
しかし、「重複」以外の熟語に目を向けるとどちらも間違っていることが分かります。
間違いだと分かる例
1つ目の説明は「重箱」「五重塔」「重版」など「重なる」の意味なのにジュウと読む言葉も多く存在しますし、「荘重」「軽重」など「重い」の意味でもジュウと読む言葉も存在しますので間違いです。また「自重(じじゅう)」は自らの重さだから「じゅう」と読むことで裏付ける人もいますが、「自重(じちょう)」も「自らを軽々しくしない」という意味なので説明になっていないです。
2つ目の説明は中国語の説明は正しいです。しかし、日本語に適用すると破綻します。例えば「贵重(zhòngshì)」「重视(guìzhòng)」など中国語では「重い」から派生した「重んじる」という意味でも「zhòng」と読みますが、日本語では「慎重」「貴重」「重要」「重視」など「チョウ」で読むものと「ジュウ」で読むものが混在しています。
つまり、「重い=ジュウ」「重ねる=チョウ」説は、都合の良い例だけを取り上げたものであり、根拠としては不十分です。
このあたりは上の記事でも深掘りしています。
なぜ「ジュウ」「チョウ」の音読みがあるのか?
日本語で「重」の音読みに「ジュウ」と「チョウ」の2つが存在するのは、呉音と漢音という音読みのルーツの違いによるものです。
音読みは、古代中国の漢字の発音を日本語に取り入れたものです。英語に対するカタカナ語のような関係です。
呉音は5~6世紀の中国南方の発音がルーツで、漢音は7世紀以降の中国北方・長安の発音がルーツとされています。これらの音読みは地域や時代、伝播ルートの違いであるため、意味の違いは基本的にありません。
日本語と中国語の読み分けの違い
では日本語には意味による読み分けがないのに、どうして中国語にはあるのでしょうか?
これは、「(前期)中古音」という600年前後の中国の発音に注目すると理解できます。当時の発音は『切韻』という書物などを基にある程度推測されています。一般に子音や母音といった音の変化にはパターンがあるため、中古音と音読み・現代の中国語の間にも法則があります。
Wiktionaryや漢和辞典によると、古代中国では「重」には意味など違いで3種類の発音があり、いずれも同じ発声方法だったものの、平声、上声、去声という声調の違いで発音しわけていたようです。
しかし、日本語の音読みでは元の声調の違いが影響せず、いずれの声調でも呉音は「ヂウ(ヂュウ)→ジュウ」、漢音は「チョウ」に収束しました。
(唐代の長安では地域差や時代変化で濁声の無声化、平たく言えば濁音が清音になったと考えられているため、漢音ではダ行ではなくタ行になっています。)
一方で中国語(普通話)では中古音の平仄(平声かそれ以外の声調か)の違いが現代の発声方法にも影響しているため、意味による発音の違いが明確になっています。(中国語の発音の変遷は勉強不足のため今後の課題にさせてください)
まとめると上のとおりです。中古音の全ての発音が、日本語だと呉音や漢音でそれぞれ「ジュウ」や「チョウ」の1つに統合しているため、日本語では意味による読み分けが存在しません。
(ただし、声調の違いの影響を受けていないだけで、発声方法が異なる字は日本語にも影響します。そのため、常に異なる中古音がすべての呉音・漢音だと統一されるわけではありません。例えば「悪」の「アク/オ」の読み分けは中古音での発声の違いを継承したものです。後述の「殺」も同じです。)
なぜ「じゅうふく」が増えたのか?
「省」の読み分け事情
呉音と漢音は発音のルーツの違いであるだけで、ルーツの観点ではこれらの間に意味による読み分けはありません。しかし、時代の変化と共に読み分けが暗黙的にできた漢字も存在します。
例えば、「省」には呉音「ショウ」と漢音「セイ」の2つの音読みがあります。当然意味による読み分けは本来はありませんが、現代では以下のように使い分けられているように見えます。
「かえりみる」の意味では「セイ」(反省など)
「はぶく」の意味では「ショウ」(省略など)
「中央官庁」や「行政区画」では「ショウ」(文科省、広東省など)
実際にデジタル大辞泉で「省」のつく2字熟語を「省」の意味ごとに分類した場合に下のような偏りがあります。「はぶく」の場合が拮抗していますが、「省力」「省エネ」など日常的な語彙は「ショウ」に集中しています。
これは「漢字音の一元化」という現象の過程で暗黙的に発生した読み分けのルールと考えられています。
漢字音の一元化
元々は呉音・漢音の境界がはっきりしていましたが、次第に曖昧になりどちらか一方の音だけが使われるように変化しています。
屋名池誠氏の論文『現代日本語の字音語読みとりの機構を論じ、「漢字音の一元化」に及ぶ』では、一元化は漢字の読み分けを単純化させて負担を小さくする動機によるものと指摘し、次の2つの特徴を挙げています。
「有標」「無標」の読み方に分け、特定の語に「有標」の読み方をする。
位置(語頭かどうか)や意味などの条件で読み方を使い分けている。
1は特別な読み方(有標)をする熟語かを先に判断し、そうでないと判断した場合は一般的な読み方(無標)をすることです。
例えば「殺」は基本的に「サツ」と読みますが、「殺生」の「セツ」、「相殺」の「サイ」は例外的な読み方ですので「セツ」「サイ」が有標、「サツ」が無標な読み方です。
そのため有標な読み方をすると知らないと無標な読み方をしてしまうことが指摘されています。
「相殺」を「そうさつ」と読んでしまうのも特例的にそう読むと知らないから起きてしまうものです。
「セツ」や「サイ」と読む熟語は馴染みのないものを含めると他にもあります。例えば「相殺」が正しく読める人でも「殺鬼」という言葉は「さっき」と読んでしまうはずだと思います。
ちなみに「殺」に3つの音読みがあるのは"本来は"「殺す」の意味のときに漢音が「サツ」、呉音が「セツ」、「殺ぐ(そぐ)」の意味の時に漢音も呉音も「サイ」と読んでいたからです。この意味による読み分けは昔の中国語の発音の違いが音読みにも影響したものです。ただ、漢音・呉音という区分を意識して使い分ける現代人はまずいないので現代の読み分け事情とは切り分けるべきでしょう。
2は「下」が「下●」だと「ゲ」、「●下」だと「カ」と読むことが多いといったものや、先ほどの「省」の「セイ/ショウ」ように、漢字の位置や意味などによる条件で読み分けを暗黙的に行うことです。
「重」の一元化の傾向
「重」も漢字音の一元化の働きが作用しているのでしょうか?
屋名池氏の論文の調査で使われていた、『現代雑誌九十種の用語用字』という国立国語研究所の資料を使って「重」の熟語の用例を確認します。1956年度の雑誌に使われた熟語を漢字・読み方別に集計したものです。
見た範囲では以下のような特徴がありました。
単語数だけでは「ジュウ」読みが優勢(34/43語)
「チョウ」読みの言葉には「ジュウ」とも読まれるものが混ざっている(重複、捲土重来、重宝)
ジュウ読みには近代生まれたであろう言葉が多い(体重、重油など)
意味による読み分けも多少絡んではいそうですが、冒頭の反例の通り完全にそうではありません。無標の読みを有標で読むことは基本的にないという考えからチョウが有標の読み、ジュウが無標の読みと考えるのが自然と思われます。
結論: 「重」を「チョウ」と読む意識の有無?
参照した論文の通り、「重」にも漢字音の一元化の作用を受けていると考えるのが自然かと思います。
近代になって「ジュウ」と読む「重」を使った熟語が増え、その不均衡さが「ジュウ」と読むのが一般的(無標)であるという考えを生んだのでしょう。この有標・無標の考え方は「重複」以外にも「早急(さっきゅう→そうきゅう)」など他の言葉の変化も説明できるのが強みです。
本論から除外しましたが、呉音の方が漢音よりバリエーションを持つことに注目した説明があり興味深かったです。読んだ書籍・論文には漢音に完全に統一されると同音異義語が増えてしまうという指摘(菅野1979)や、全濁母(頭の子音による漢字音の分類・重も含む)の字など呉音が漢音には存在し得ない音読みを持つ字は一元化しづらい(屋名池 2005)といった考察がありました。
個人的には英語の過去形の話に近しいものを感じました。英語で様々な過去形の活用が一律 -ed に変化した中で使用頻度の高い単語だけ古い英語の活用が生き残り不規則活用になったのと同じように、漢字でも一元化の動きの中で頻度の高いものだけ有標の読み方が残ったのでしょう。dream の過去形が dreamed(規則活用・無標) か dreamt(不規則活用・有標)に分かれるのと同じように「重複」も言語変化の狭間にあるのかもしれません。
今後の課題
変化の要因を裏付けるためにもっと近代の日本語の変化を調べる必要があります。また「重」以外に似たような例があるかまで俯瞰しきれるほど見られていません。
また、「ジュウ」と読む「重」の付く言葉に近代語が多い傾向を指摘しましたが、ジュウの無標性との因果関係は明治時代など昔の読み分け事情を把握しないといけません。
まだ完全な結論は出ていませんが手がかりとなる知識や先行研究とは出会えました。日本語史、コーパスや辞書を用いた調査方法など詳しくない知識が多いのでより大局的に読み分け事情を把握できるよう引き続き趣味の研究と勉強を続けたいです。
補足: 結局どう読むべき?
最近、石黒圭氏の『日本語は「空気」が決める 社会言語学入門』という書籍を読みました。日本語のふさわしい言葉選びについて話し手や聞き手、環境などの要因で語った本です。
言葉選びの観点で考えると、「重複」の読み方は「正しさ」ではなく「ふさわしさ」の問題です。広く使われている以上、どちらの読み方も「正しい」と言えます。しかし、伝われば何でも良いわけではなくフォーマルな場では伝統的な「ちょうふく」の方が好まれやすいでしょう。
また、下記サイトのアンケートによると現在は64.4%の人が「ちょうふく」と読んでいるようです。伝わりやすさの観点でも「ちょうふく」の方が適切と思われます。
しかし、本来の読み方が常にふさわしいとは限りません。
単なる誤読ならまだしも変化しつつある/しきった時代・環境に育てばそう読むのが自然です。変化した読み方をする人が必ずしも無教養とは言えません。
例えば、「尊重」はかつて「そんじゅう」と読まれていました。
仏教系の資料やお経などに「ソンヂュウ」と書かれている他、『邦訳 日葡辞書』という1600年ごろの日本語の姿を映した辞書でも「ソンヂュウ」だったそうです。
現代でも調べると下記のサイトのように仏教系の文章ではこの読みが使われているようです。
いくら本来の読み方を重んじる人でも、それを知ったところで「そんじゅう」と読むでしょうか?あるいは「そんちょう」と読む行為を無教養だとバカにするでしょうか?
このように誰しもが多かれ少なかれ日本語の変化の影響を受けています。遥か昔のものやマナーに取り上げられていないものなど我々は無意識に変化を受容しています。
とはいえ、「重複」は現在変化しつつあるという点で「尊重」と異なります。そういった状況の中で言葉選びの基準に本来の読みを用いることも大切です。
本来の読み方と慣用的な読み方の双方にメリット・デメリットがあるので、言語変化に無頓着になったり過度に排斥したりせずに、両方の側面を意識して自分に厳しく他者には寛容にあるべきでしょう。
いずれにせよ、言語変化は想像以上に大きいので日本語マナーで槍玉にあがるごく一部の言葉の事情を知ったところで、教養マウントに使うようなものではありません。
また、「ちょうふく」を正当化するために世間で誤った説明が語られることも問題だと思います。正しくない根拠でも良いのなら主観だけで好き勝手に言えてしまいます。どちらの立場にせよ、主張には妥当な根拠を用いるべきです。
参考文献
菅野謙 「漢音・呉音・慣用音のゆれ(1)」 『文研月報』29-10 日本放送出版協会 (1979年)
飛田良文「明治大正期における漢音呉音の交替」『近代語研究 第二集』武蔵野書院 (1968年)
沼本克明 『日本漢字音の歴史 新装版』東京堂出版 (2023年)
文化庁 「平成15年度「国語に関する世論調査」の結果について」(2004年)
屋名池誠 「現代日本語の字音読み取りの機構を論じ、「漢字音の一元化」に及ぶ」『国語学論集』 汲古書院 (2005年)
放送用語委員会 用語の決定~「依存」「逆手」「奥深い」「凍え死ぬ」など~ NHK放送文化研究所 (2014年)
wiktionary Appendix:Baxter-Sagart Old Chinese reconstruction (2023/11/25閲覧)
Database of Historical Sino-Japanese Readings (2024/6/5閲覧)