「重複」は重なるの意味だから「ちょうふく」が正しいわけではない
昨年に重複の読みに関して似たような記事を書きましたしそちらでも同じトピックを紹介しました。(後述)
そちらでは反例の紹介だけで言語学的・歴史的な経緯などに着眼して書きましたが、ここでは「重」には意味による音読みの読み分けは存在しないことにフォーカスをあてて、よくある日本語解説サイトに対しての論理的な穴について触れたいと思います。
過去記事のあらすじ
「重複」という言葉はなぜ「じゅうふく」ではなく「ちょうふく」と読むのか?
「重複」の読み方に関しては多くの日本語解説系サイトが紹介しています。その大半は慣例的に両方許容されていると柔軟かつ妥当な説明のサイトが多いです。
一方で下のような根拠もしばしば目にします。
このように「重い」なら「ジュウ」、「重なる」なら「チョウ」と読むから「ちょうふく」が本来の読み方と言われていますが誤りです。「重版」や「荘重」など反例が多くあるためです。特に「重なる」の意味なのに「ジュウ」読みの熟語はかなり多くあるので「重複」の理由付けには乏しいです。
その疑問から生まれた現代中国語ではそのような読み分けがあるのにどうして日本語では違うのかという疑問について、漢字音の歴史や読み分け事情に関する論文の側面で書いたのが下の記事です。
音読みのルーツの観点で見ると、「重」の「ジュウ」と「チョウ」は呉音と漢音と呼ばれる音読みの伝播した経緯による違いであり、一般に呉音と漢音の間に意味による読み分けは存在しません。
「省」のように時代の変化で漢音・呉音の読み分けが意味の読み分けに変化したと思われる字はあるものの、「重」には強い傾向は見られません。
現代の人は「重」の付く熟語は原則的には「ジュウ」と読むようになったが「貴重」など使用頻度の高い単語だけ例外的に「チョウ」読みが根強く残ったものと思われます。
この例外に「重複」が含まれるかどうかで「ちょうふく」と読むか「じゅうふく」と読むかが分かれているのでしょう。つまり、「重複」は使用頻度の高さから音読みの統一の動きと慣例の狭間にあるから派閥ができていると私は考えています。
論理の整理
先程より正しそうに見える解説を見てみます。
「大切にする=ちょう」説
冒頭の解説と比べると、「大切にする」「はばかる」という意味も細分化した説明です。
確かに「ちょう」と読む単語を思い浮かべると「丁重」「尊重」「重宝」などこのルールに当てはまる感覚がします。
これを論理的に整理して考えて見ましょう。
まず、冒頭のAmerican Expressの解説と違うのは逆の命題になっていることです。冒頭の説明では「重い」の意味の時は「じゅう」と読むと書かれていたのに対してこちらでは「じゅう」と読む時は「重い」の意味になると書かれています。
一般に逆は成立しないのですが、「重」には「ジュウ」と「チョウ」の2つの音読みしかないこと、漢和辞典などを見る範囲でも「重」の大半は「重い」「重なる」「大切にする」「はばかる」の4つに分類できることから命題を逆にしていること自体に大きな問題はありません。
そのため、上の議論が正しければ「重なる」「大切にする」「はばかる」という意味で使っているなら「ちょう」と読めるという理屈が通ります。
しかし、重なるの意味では「重版」「二重」、「大切」の意味では「重視」「重大」「はばかる」の意味では「重厚」「厳重」のように「じゅう」読みが一般的な言葉は多くあるので間違いです。
単独で見た場合の問題
先ほどは「じゅう」と読む時は「重い」の仮定も加味したことで論理的な破綻が発生しました。
一方で後半のこの主張単体は正しいように見えますし、「重い」の意味で「ちょう」と読む熟語はほとんどないので精度の高い主張でしょう(荘重など例外はありますが)。
しかし、これ単体で見ることも問題が生じます。
論理の誤りで「後件肯定の誤謬」(ーごびゅう)という言葉があります。PならばQという命題に対してQだからPという結論を出すものです。例えば「雨が降ったら地面が濡れる」という事実を元に「地面が濡れている」のを見て「雨が降った」と判断する行為です。打ち水やスプリンクラーなど他にも濡れる要因があるはずです。
「ちょう」と読む熟語は「重なる」などの意味を持つからといって逆に「重なる」の意味だから「ちょう」と読むべきと言い張ることはできません。実際に他の「じゅう」と読むのに「重なる」の意味を持つ熟語を蔑ろにしてしまいます。
確証バイアスに気をつけよう
世の中には「確証バイアス」というものがあります。上の通り、自分が正しいと思ったらその考えに合う例だけを選んで、合わない例は無視してしまうことです。
「重複」に限らず「一段落(いちだんらく→ひとだんらく)」などの説明を見るとそのような先入観に囚われているものが見られます。説明を鵜呑みにしないで反例がないかはしっかり考えるようにしましょう。
(一段落は「一+漢語」の場合は「いち」、「一+和語」の場合は「ひと」の"傾向が強い"という話を踏まえて「いちだんらく」のみが正しいという主張です。必ずそういうものだと捉えると「一安心」「一工夫」などの反例が現れます。あくまで慣例優先で絶対的ではないと考えるべきでしょう。ただ、NHKや辞書の見解などを見ると「ひとだんらく」は"規範的には"認められていないのでフォーマルな場では市民権は得られていないようです。)
言葉は多数決
このようなことを書くと、日本語の乱れを正当化するなと言われるかと思います。しかし、ここで書いたのは日本語の乱れの指摘における根拠に誤りがあることだけです。別に「じゅうふく」を認めるべきだとは少しも書いていません。(私は「ちょうふく」と読む派ですし、多数派かつ伝統的である「ちょうふく」の方が無難と考えています。)
「重複」を「じゅうふく」と読むのが慣例で生まれたものなのと同じように「ちょうふく」が本来の読み方であったのも漢音読みとして定着したものが慣例的に続いていたからでしょう。
「正しい日本語」を正当化することに躍起になりすぎて都合のいい例だけ取り上げることがないように気をつけましょう。
余談:「慎重」の解説に関して
それはそうとして日本語解説系サイトでもう1つ注意するべきことがあります。
先ほどのAmerican Expressの記事を再度引用しますが、「慎重」は「慎みを重ねる」から「しんちょう」と読むのが正しいという解説を散見します。
しかし、意味による読み分け以前に「慎みを重ねる」という解釈自体が間違いです。
国語辞典や漢和辞典などを引けばわかりますが、「慎重」の「重」は「軽々しくしないこと(はばかること)」を意味します。
「慎重」は和製漢語ではないので中国語の構造を無視していることも「慎みを重ねる」説が誤っている理由です。「重」=「チョウ」説を裏付けるために辞書も引かずに勝手な解釈をしただけでしょう。
本来の読み方を知るべきなど啓蒙する姿勢やそれを知って言葉選びの選択肢を増やすことは大切ですがろくに調べず意見を捏造しないようにしましょう。