映画30(さんまる)上映会in恵庭〜母と私の激エモ奮闘記〜②母→娘
母から返信が来た!
母に返信を強請っていたらとうとう返事をしてくれました!やった!
キノは手紙風で書いたけど小説風に返してくれた笑
私が産まれてからはっぴーに居候するまでの過程を書いてくれました!
少し長めですが読んでみてほしいですっ!
キノは私が41歳の時に生まれてきた第2子だ。
ちなみに前年双子を授かったが残念ながら流産している。
29歳で結婚して以来子供に恵まれず8年目に突然第1子を授かり、
長年住んだ東京方面から北海道に移住した。
第1子は男の子で、
喜怒哀楽の怒をお腹に忘れてきたような子で優しくて穏やか。
「わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい」という思いとは真逆で、
怪獣より恐竜、絶滅危惧生物やへんな生き物を愛し、
争い事を嫌がる平和主義者だった。
男の子の世界では戦いごっこが挨拶代わりだったので、
いつも一方的にやられていて長年歯がゆい思いをしてきた。
それでも根が明るいので子育ては楽しいものだった。
その長男が毎日サンタさんに弟か妹が欲しいと願ったので、
5歳違いで現れたのがキノだ。
2番目でしかも女の子は子育て楽だね、と周りから言われたけれど、
これまた真逆で。
好奇心いっぱい、すぐ突っ走って見えなくなる、店の中を走り回る、商品で遊ぶ、いつも危なかしくて四六時中いつも目を離せない状態だった。
戦いごっこも大好きでよく変身していた。
キノが何をやってもお兄ちゃんが怒らないからやりたい放題なんだよ、
と優しい兄を責めたりする母だった。
小、中学校ではとにかく目立ちたく、生徒会長にも自分から立候補した。
高校では部活の演劇にのめり込み、授業は英気を養うために寝て、
放課後の部活に全エネルギーを注ぐ生活をしていた。
当然勉強は二の次だった。
3年生になって部活を終えると、
外部の学生達や起業家たちの集まりに参加するようになり、
夜遅く札幌から帰って翌日は起きられないという日も多々あった。
昭和世代の親としては、
そんな理由で学校をサボるのは言語道断だったので布団を引っ剥がし無理やり学校に行かせたりした。
この頃の平成ぶっ飛び娘と50代半ばの母のバトルはエネルギー半端なかったと思う。
3年生の夏には十勝の女子高校生と意気投合し、
受験のモチベーションをあげるために九州の若者の集まりに行きたいと言うので、
計画書と費用の見積もりを書かせ送り出した。
帰ってきたらそこで色んな刺激を受けて来たらしく。
親の期待とは真逆に、大学受験は受けない!大学で自分の学ぶべきことは無い!
と言い出し、私たちを仰天させた。
親としては、何をやりたいのか、どんな未来にしたいのか分からないなら尚更、
社会に出る前の4年間の猶予に旅したり色んな人と出会ったり、
見聞を広げじっくり自分と向き合えばいいじゃないかと思っていた。
自分自身も親のそういう思いに感謝したことも影響した。
娘の大学受験ドタキャンの意思は強く、
白いツナギを着て行く先々でメッセージを書いてもらう一人旅に出たいと突拍子もないことを言い出した。
ここまで来たら何を言ってももう無理だと諦め、
私が長年コツコツ貯めた500円玉貯金箱を壊し、出世払いねと、
まとったお金を渡し、好きに行ってこいと見送ることにした。
そうして娘は旅立ち、その旅の途中で今回の映画の舞台である、
はっぴーの家ろっけんに立ち寄ったらしい。
最終的には広島の尾道のゲストハウスでヘルパーをし、
西日本豪雨ももろに体験し恵庭に帰ってきて、高校の卒業式を迎えた。
これからどうするのか、どうやって生活していくのかという心配をよそに、
また突拍子もなく絵を描きたいから庭にアトリエ作りたい!とか
無人島に住んでみたいとか、訳の分からない願望を口にして、甘い!と呆れていた。
そして忘れもしない、6年前の私の還暦の誕生日の4月。
山の宿に父親と3人で泊まりに行く車の中でこれからどうするという話になり、
キノが、友人達にサイコロかジャンケンで決めてもらおうかな、と言った途端、
今まで静観していた父親が雪の山道を運転しながら
「自分の将来をそんなことで決めるな💢ふざけんじゃない!」と激怒した。
私も呆れて「水曜どうでしょう」の大泉洋か!と心の中でツッコミんでいた。
そしてその後、
実は旅の途中で泊まったシェアハウスが多世代型介護付きシェアハウスで、
とてもユニークで興味深いのでとりあえずそこに行ってみたいと打ち明けた。
こちらは良くても相手は受け入れてくれるのかという不安もあったが、
代表の首藤夫妻はそんな娘を面白がってくれて、ほぼ居候という形で受け入れてくれた。
それからはっぴーの家ろっけんがどういう所なのかを知ることになる。