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映画30(さんまる)上映会in恵庭〜母と私の激エモ奮闘記〜②−2母→娘

父の話。生い立ちから馴れ初めまで編

娘が返信かく余裕ないほど長文が送られてきました。笑
どんだけ書くねん!!


でも、私からしたらとても大事な文章っ!
私の顔は超絶父似で、仕事の話は父とよく気が合って話します。
そんな父は幸せ笑顔とは思えないほどの波瀾万丈な人生だったみたい。
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父の背景



娘のルーツを語る上で外せないのが
父、石山 豊の半生である。
一見坊ちゃん顔の見た目とは裏腹に、昭和35年生まれにしては中々の苦労人だ。

東京生まれの豊は、小学生の時は重度の小児喘息で、
酷い時は1週間に2日しか学校に行けなかった。
クラスに1人は居る色白で小太りなどんくさい少年だったと本人は言う。

5年生の時、某ガス社員の父親が胃がんで亡くなってしまう。
そこから生活が一変する。

埼玉県に近い東京都下の親戚の家に母、姉と共にお世話になる。
親戚のうちは家族経営の八百屋で、店舗販売だけでなく仲買、卸しも行っていた。居候の親子は会社員の家族から突然、働き手の人員としての生活が始まる。

軍隊上がりの伯父さんにはとても厳しく仕事を指導され、
看護師だった伯母さんは体質改善しなさい!と食べ物の好き嫌いは一切許されず、剣道の道場にも通わされた。

学校から帰ってくると夜7時から11時まで店の仕事を手伝ったり、夏休みなどは夜トラックに乗って仕入れた野菜を長野の市場に運び下ろすなどの肉体労働をよくしていた。
そのため授業中は居眠り常習者で好きな科目以外勉強の方はさっぱりだった。

母と姉の失踪

ある日学校から帰ると、母親と姉が姿を消していた。
あまりの厳しさに、母は自分の兄の元に身を寄せたのだ、豊を残して。
その時の心境は、親に捨てられた、だった。
どんなに大変でも生きるためにはここにしがみつくしかない、と思った。

幸い伯母さんの厳しさは愛情からくる厳しさで、豊にとっては育ての親、
朗らかでどこまでも愛情深い恩人だった。
感謝してもし足りないと今でも思っている。

お陰で身体は徐々に丈夫になり、中、高校生のときは剣道部のキャプテンもやった。
この時の親友家族が、疲れた豊を暖かく癒してくれて、
まるで実家のようにくつろがせてくれていた。
お陰でグレることなく過ごすことができた。と本人は言っている。

高校は工業高校に進んだ。
八百屋の仕事もこなしていたので興味のない英語の授業などは全く頭に入らなかった。

高校卒業後、伯母さんの勧めで某所にマンションをローンで買い、
母と姉も呼んで一緒に住み始めた。
エレベーター、エスカレーター設置の会社に勤め、
出張で地方を周りほとんどマンションには帰らない生活を2年続けた。

働いているうちに会社のことがよく分かるようになり、
この会社は自分には合わないと辞めることになる。
昼間は本屋や工場などでバイトして学費を稼ぎ、
資格を取るべく夜間の専門学校で2年間電気を学ぶ。
そこで電気主任技術者という資格を取得する。
覚悟の2年間だったので先生方にも認められ、
東京品川にある大手企業に就職出来た。

そこでラグビー部に出会い、今度はチームワークが醍醐味のラグビーを始める。
フランカーとしてあばら骨や鼻の骨を折りながらも、
チームプレーの楽しさを味わう。

妻、香織との出会い

時はバブルの時代、
東芝が全盛の頃、色んな会社の社員を集めてサンフラワー号に乗り、
グアム、サイパンに行きながら学ぶという
職場リーダー研修という名の11日間の洋上研修に参加することになる。
そこでキノの母香織と出会う。
ハレー彗星が流れる年だった。

その頃香織は、田町にあるリコー系の輸出業務を就いていて、
あまりの忙しさに会社を辞めて北海道に帰りたいと思っていた。
そんな時、当時の課長に、洋上研修を推薦されたが、
もうすぐ辞めるつもりなので辞退します、と宣言した。
その時の課長はとても思いやり深い方で、
今まで頑張ってきたご褒美だと思って辞めてもいいから行ってきなさい、と言ってくれたので参加することにした。
その頃の座右の銘は
「人生は出会い、感動、そして笑顔!」である。

洋上研修に全国250人近く参加、そのうち女性は1割にも満たない。
閉じられた空間で女性が多いと何かとトラブルが起こる、
という現代では問題になりそうな理由で少なかった。

女性は23歳前後ごほとんどで、私はその時27歳、上から2番目の高齢だった。
事前に名簿が渡され、今では考えられないが、
住所、氏名、連絡先、会社、会社の所在地等、個人情報満載である。

その頃の香織は美容には無頓着、
日焼けもなんのそので南に向かうにつれ焦げていった。
他の女性達は一生懸命日焼け止めを塗り、船酔いにも苦しんでいた。
香織は船酔いせず、今日も元気だ、ご飯が上手い!だった。
250人もいると、同じ班や近くの班でなければ話すことも無い。
豊とは離れた班だったので接点は無かった。

ある夜中、当時コンタクトを使用していた香織はコンタクト無しの見えない目でトイレに行った。
出てきたところに2人の男性が通りかかり、
そのうちの1人は隣の班だったので顔見知りで話しかけられた。

もう1人が豊なのだが、
男性陣は名簿で数少ない女性の情報を熟知していて、
小林さん(香織の旧姓)の住んでいるところは僕の会社と近いんだよね、と豊が言ってきた。
所在を聞くと確かに歩いて行ける距離、
へぇーとその場は見えない目でやり過ごした。


あとから聞くと、豊は色黒でショートカットが好みらしく、
その時の香織はドンピシャだった、らしい。
それでも研修中は課題が多く忙しいので接点はほとんどなかった。
帰ってきてから近いという理由で会うことになる。

香織は当時いわゆるキャリーウーマンで役職にもついていて
イケイケに見えていたかもしれないが
実際は、相当の奥手でほとんど男性と付き合ったことがなく、
東京の風呂なしボロアパートに住み、場所が品川だったので家賃は安くなく、
残業残業で会社とアパート(当時は妹と住んでいた)を往復するだけの生活をしていた。

そこに突然現れた男性は、毎日電話をかけてきたが嫌な感じはしなく、話が弾み何時間でも話ができた。
当然妹に白い目で見られたが。時に会社帰りアパートの前で待っていたりした。

今ならストーカーだ。

苦労人なのに全く卑屈なところがなく、常にいい方に考え、変なこだわりは無く、人の話を納得できればどんどん取り入れる、
いわゆる「聞く耳を持っている人」、というのが豊の印象である。
しかも滅多なことでは感情的にならない。
今までの人生から見たら少々のことではめげないという人柄に、
尊敬の念を抱いた。
そうして付き合うこと2年、
香織が30前に結婚したいという豊の希望で香織29歳、豊26歳で結婚した。

香織の父は割と進学校の高校の英語教師で学歴等を結構気にする方だったが、
それまで男性の影がない娘をもらってくれるなら有難い、とばかり大歓迎だった。

それどころか、香織の父と兄は、
「この子、相当きかない(気が強い)けど大丈夫?」
と豊の結婚生活を心配するほどだった。
結婚式は東京早稲田のアバコブライダルホールで挙げた。
ウエディングドレスは香織の伯母の手作りであったのだった。


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馴れ初め編、以上になります。笑
本でも書く気なんだろうか。
投稿した日はもうイベントは終わっていますが、自分用としても記しておきます。

母と私の激エモ奮闘記って名前つけたけど、ずっと続いていくかも。
いつかお互いの最期を迎えるその日まで。記していきたいな。

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