板野のねこ

一部グロテスクな表現があります。


 手さげ袋の端で、ハエが休んでいた。板野は、戦闘態勢に入った。自分は太平洋戦争中の戦線で、泥と汗に濡れた三八式歩兵銃を握りしめ、ぬるぬると遊底を動かして、来る敵へ照準を合わせた。それを思い出して、動く気配のないハエに時間をかけてピントを合わせる。左手で袋を持っていたから、右手で仕留めなければならなかった。しかし、アルコールで震えるようになってしまった右手を袋へゆっくり近づけると、小刻みに痙攣した小指が袋を僅かに弾き、ハエはどこかに飛んでいってしまった。板野は虫を潰したい気分だったけれど、それを小指が邪魔したとして、小指を叱咤した。コラ!

 夜道は暗かった。このところ板野は夜に出かけていなかったものだから、はあ、予測できるはずがなかった。郊外の街灯は古くて、エル・イー・ディーという文明は所在しなかった。おまけにカバーはかすんでいるのか汚れているのかで、光は板野の足元まで行き着くことのないまま、月の光とぐちゃぐちゃになっていた。数えて、一、二、三、四本目の街灯はチカチカと点滅していて、周囲にたかる虫どもがストップ・モーションのように止まって見える。板野はやっと、ある品を買い忘れたことに気がついた。帰り道ずっと、何か引っかかっていたその正体。便所の蛍光灯はかれこれ半年以上も切れていて、薄暗い中で用をたさねばならなかったのだ。毎日替えよう替えようと思うが、買う時にはすっかり忘れてしまう。自分がシュカール号の船長だった頃は、便所の蛍光灯だとか、ぼっとんだの、水洗だの、気にしなくて良かったのに。板野は海賊を討伐する正義の船、シュカール号で生活したことがあった。インド洋南部にて、ただ海賊に出くわしたら殺すという危険な仕事で、十五名の船員は、島に帰ってきた時は十名まで減っていた。板野は船長として、地図を駆使し、舵を切り、悪党まで切り、船員をリードした。この年まで孤独な生活を送るのも、あの経験が長かったからだ。蛍光灯のことを思い出して一瞬足を止めていた板野は、また歩き出した。

 ごにゅ。二、三歩歩いたところで、何かを踏んだ。田舎道だとよくあることだ。板野は構わず踏みおろしてまた、四、五歩歩いた。突然ぬるい風が吹いて、板野は少し身震いすると、今夜の夕食について考え始めた。ハンバーグ。カレー。シチュー。揚げパン。昨夜は何を食ったっけ。板野はあまり料理を知らなかった。なんせ、人生の大半を、戦争と航海と、修行に費やしたのだから。板野は長い間、サナハラ山という辺りを霧に包まれた山で、500年生きる仙人のところで修行をした。今でも、拳を突き上げればまるで重力が逆さまに働いたように下の草花が引き寄せられる。関節をはずし、筋肉を操って肘から先を軟体動物のように変形させる技も習得した。若い板野は無敵だった。波動を体の芯を振動させることで生み、空間を伝って見えない攻撃をも行えた。仙人は最後は、もうわしに教えられることはない、どこか悲しげに言うと姿を消した。板野の一番の誇りが、実はこの言葉だった。

 ナーン。後ろから何か聞こえた。ナーン。板野は振り返る動作が痛いのか、首をあまり動かさずに、左右に大きく揺れながら振り返る。もちろん、それでも暗くて何も見えないわけだが、何かが鳴いているのは分かった。ナーン。自分が先程踏んだものらしかった。動物だったのか。いや、人間だったらどうしよう。女が、ナーンと泣いているならどうしたものだ。女を踏んでしまって、痛くって泣いているなら、それは私が悪い。板野は歩いて来た道を戻ると、五歩目に出した足が何かに当たった。シャー。板野は袋が枝に擦れた音だと思ったが、続く低音のうなりに、それは、ねこという生き物だとわかった。ねこは、確か自分のおじいさんが飼っていて、今も元気に過ごしているのか、また会いに行きたい。随分見ていないから、どういう生き物だったっけか、可愛かったきがする。そんな良い生き物を、踏み倒してしまったのか。板野は罪悪感はなかったが、痛そうだなと思った。あっ、あの四本目の電灯がついに切れてしまっている。家の蛍光灯とお揃いだ。板野は、そこで蛍光灯を買い忘れてしまったことに気づいた。便所の蛍光灯はかれこれ半年以上も切れていて、薄暗い中で用をたさねばならなかったのだ。毎回買うのを忘れてしまう。海にそのまま垂れ流していた頃に戻りたい。板野は海賊船カザナット号の船員だった。船長のボストアは陽気だが厳しく、激しい折檻に船員は皆怯えていた。ついさっきまでカビの生えたパンをごくごくと飲むように食って、今夜は星座がきちんと見えるぞ、なんて抜かしていた人が、五分後には鞭をふるっている。どおりで、連携が取れなくて小型船ごときに沈没させられたものだ。板野はボストアの顔を思い出し、頭の中でナイフを突き刺した。ナーン。

 ねこは、袋の中に入っていた。ナーンと鳴く度に、カサカサと音がした。板野は迷った。踏んじまったなら責任をとって潰し殺さなければならないが、どうやらねこはかわいいらしい。本当はどうなのか、と暗闇に目を凝らして、袋の中身を覗き見た。

 板野はかつて、街のヒーローだった。生まれつき浮遊能力を得た彼は、立ち並ぶビル群を飛び回り、悲鳴が聞こえては向かって人助けをするという、正義の味方だった。ある日曜日の昼過ぎ、女の悲鳴が聞こえ、いつも通り駆けつけると、そこに車に轢かれた子供が横たわっていた。腹部から多量の出血、臓、折れた骨は皮膚を貫き、子の潔白さを表す色をした。偶然だろうが、道路にこびりついたタイヤ痕と子から飛び出た骨の配置はシンメトリーで、黒白対比、それを血の赤が仲介し、板野の感性はその芸術的な光景を肯定しようとした。ヒーローたるもの、ひき逃げは許すことができまい、車を追いかけないとと焦るものの、目をその凄惨から離すことはできなかった。女が目の端でしゃがみ込むのが分かった。耳を傾けると、やだやだやだやだやだやだと呟いていることが分かった。女はこの子供の親らしいと分かった。やだ。嫌だ。嫌なのか、なるほど、親はこの子供が轢かれたことが嫌らしい。この血塗れでひどい体制で倒れた我が子を否定している。ふーん。板野は考えずに、子の頭を、重たい金属製の足で、パク、と割った。

 ねこは同じようにいくだろうか。喚くねこは、袋から顔を覗かせると板野を睨んで、再びシャー、そして唸った。やっぱり、踏み潰さないことにした。どうやらねこはかわいいらしい。ねこは、確か自分のおじいさんが飼っていて、今も元気に過ごしているのか、また会いに行きたい。体を左右に揺らしながら、再び家の方向をむく。蛍光灯が板野の右手のように、痙攣した。今にも死んでしまいそうで、板野は悲しくなった。ここで板野はやっと、ある品を買い忘れたことに気がついた。帰り道ずっと、何か引っかかっていたその正体。






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