主従と愛
その男は、美麗でありました。ぱっちり大きい二重の目、高い鼻、ふっくらとした赤い唇。そして、黒色の髪を、肩につかない長さまで伸ばしていて、女性的で耽美な容姿でありました。しかし、十三歳の秋、声変わりが起きた時、声は獣の唸り声のような、低くしゃがれたものに変わってしまいました。私は、あの方に仕え初めてから幾年か経ちますが、生活を共にする上でだんだんと、その美しさと醜さの兼ね合いが愛らしく思えてきて、気づけば私の心は鷲掴みにされていました。ああ、私は恋をしているのかもしれません。好きで好きでどうしようもなくて、一緒にいる時もそうでない時もずっと、あの方のことを考えてしまうのです。あの方はとてもお優しいので、私の好意にこう答えてくれます。
毎晩、男はベッドに私を迎え入れると、手をぎゅ、と握って眠ります。私はいつだってその先を望んでいるけれど、あの方はそこで留まるのです。私は体があの方より随分小さいですから、私の背中に手を回したり、抱きしめながら眠った時には、私が息をしづらくなってしまう。そのようなことをお考えになって、手を繋ぐという行為で止まっていらっしゃるのだと思います。分かっています。雇う、仕えるの関係でありながらみだらな行為に至るなんて、いけないことです。私はあくまでも主人に仕える、しがないものなのだから。そう言って、最近、自分に言い聞かせています。しかし私の熱は収まりません。あの方を想う気持ちだけが日に日に大きくなって、私の心臓を圧迫するのです。苦しい。悲しくて切なくて愛おしくって!カーテンを締め切ったあの方の香りが残っている寝室で、一人ひっそりとなくことを、一体私は何回経験したのでしょう!あのしなやかな身体と、ふわり舞う髪と、麗しい唇を想像すると…!はあ、少々、汗をかいてしまいました。今度あの方に会ったら、きっと、ないてしまうに違いありません。今はご家族と遠い国で休暇を楽しんでおられます。帰ってきて、私がないていたら大変困ってしまうでしょう。静かに、でも暖かくお迎えするのです。私ならできます。
男が帰ってきて、数日が経ちました。会えなかった分、私の心と体は彼をいつもにも増して欲していて、ドアが開いた瞬間、思わず抱きついてしまいそうになりました。あの方の匂いが家中に広がると、ここが私の仕えるべき家で、主人は帰ってきたのだ、主人は帰ってきたのだと、改めて認識しました。空っぽの家は、私に役割を与えなかった。あの方がいてこその暮らしと家なのだと、身に染みて分かりました。もう私は、あの方のためになら全てを捧げる覚悟であります。今思えば、名前や食事や、その他私の人生の全てを、あの方に決めていただき、導いていただいているのです。こんなに恩を感じているのに、恋愛感情は絶えることがありません。こんなの、公私混同、モラルがないと、お思いになられるだろうか、嫌われることだけは避けたいのです。昨日もあの人と一緒のベッドで眠りました。夜にこっそりと歩く、寝室までの廊下は本当に楽しいのです。あの方の可愛い寝顔、シーツに広がった髪、寝息、手、指、爪。思い出して、嬉しくなって、幸せな気分で渡るのです。しかし今日は、やめておこうと思います。小さな実験です。本当は、一緒にいたくていたくて仕方ないけれど、やめてみます。あの方は明日、どんな反応をするのだろう。
今日の朝、男は私を見つけるやいなや、駆け寄って頬にキスを落とされました。何がなんだか分からなくて固まっている私に、あの獣のような声で、ごめん、と仰り、去られました。突然のキスで飛び上がってしまいそうな気持ちと同時に、自分のしたことに対する深い後悔が襲ってきました。夜、あの方のもとに行かなかったから。私は私の主人を、謝らせてしまったのです。なんて罪深い私!何を考えていたの?心配なさったことでしょう。ごめんなさい、ごめんなさい!今日からは必ずあなたのベッドに入って、一緒に寝ますから!どうか、私に謝らないで、私を遠ざけないで、いて下さい。
あの方の匂いは、キンモクセイの花とかすかなシトラスを含んだ、私の好きな良い匂いです。真夏の暑い日に走って帰ってこられたときは、酸っぱさと淡い土の香が混ざったような匂いがして、これはあの方の、生き物としての匂いなのだと思い、少しばかり興奮してしまいました。汗で首に張り付いた髪の毛も、激しい息遣いも、私をドキドキさせて…。恥ずかしいことです。でも、ああ、あの匂いと一緒に、溶けてしまいたい。肉体も魂も全て混ざった、共同体に、一つのものに、なりたい。はあ、はあ。はあ、はあ、あなた。夏は、いい、季節です。
ぺろり。ぢゅ。ぺろ。ちゅる。ぢゅ。ぺろ。ぺろ。
あの方はいじわるです!私の気持ちに気づいているくせに、私のことが好きなくせに、あなたから求めてくることはないのですから!もうこんな主従関係なんか、壊してしまえばいいのです!あなたなら簡単に壊せるのに、なぜしないの?あなたは私の雇い主としてか、私の恋人としてか、どちらでいたいの?はっきりしてください!こんなに愛して、愛して愛して愛しているの。あなたが応えてくれないなら、私、どういう風に振る舞えばいいのですか?はっきり言って、もう、元にはもどれませんよ。元の、雇う、仕えるの関係の、まだあなたも私も幼くて純粋だったあの頃には、もどれませんよ。さあ、どう、したいの?
ぺろ。ちゅる。ちゅる。ぺろり。ぢゅ。ぺろ。
あなたの全てが知りたい。私の全てを知って欲しい。幸せになれます、私たちきっと。だから。
ちゅ。ぺろ。ちゅる。ぺろ。ぺろ。ちゅ。ちゅる。
あなたが怪我をなさってお帰りになった日、覚えてますか?とても昔、お互い、まだ小さかった頃のことです。膝と、肘と、右手の薬指、親指、左手の手のひら。コンクリートの地面にずざっと剃って、血を流して泣きながらお帰りになった。あの時、私は膝を抱え顔をうずめてお泣きになるあなたをどうにかしようと思って、手の傷をぺろり、ぺろりと舐めたのです。あなたは、汚いよ、と仰りましたが、私は唾液で傷は治ると信じていましたから、舐め続けました。あなたは泣き止んで、笑顔でわしわしと私の頭を撫でると鼻と鼻をつん、と合わせて、ありがとう、とだけ言って階段を駆け上がっていきました。あれは、もう平気だよ、大丈夫だよ、というサインだったのですか?私はあなたが、大好きです。狂おしいほど。あなたの血の味を知っているのは、私だけなのです。あなたの勉強や運動、怪我、病気、入浴や排泄までに至る生活の全てを知っているのは、私だけなのですよ。ぺろ。ちゅる。ぢゅ。ぺろ。ぺろ。あなたの味、匂い。ぺろ。ちゅ。ぺろ。ぺろ。ああ、そんな顔しないでください。もっと欲しくなってしまう。ぺろ。ちゅる。ぢゅ。ぢゅ。はあ、はあ、もっと。ちゅ。
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やめ、やめてよ。はあ、あつい…。溶けてしまいそうだ。なんだってクッキーはこんなに舐めてくるんだ。この前も朝起きたらこいつの唾液でびちょびちょだった。最近おかしい。寝る時に来てくれなかったり、なぜか怒って吠えてきたり。この間は寝室から、くぅーん、くぅーんって悲しそうに鳴く声が聞こえてきたし。……奈良旅行、3泊4日はちょっと長かったかな。寂しい思いさせちゃった。それでかな。んもー、すご、首まで舐めてきて。ほら、おやつ、あげるから。いったんやめて!
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