佐野

 あと3秒で、成功していた。0:00。ぱちりと変わったデジタル時計の日付を見て、うなだれながら机に頭をぶっつける。思ったより痛くて、なんと自分が馬鹿であることが分かった。課題未提出、と言う字が、ゆらりと目の裏に浮かんでは、その形を確固たるものにしていった。机がひんやり冷たい。足の指もまた、握ると魚みたいに冷たかった。夜、暖房をつけると、室外機がブンブンうるさく鳴り続け、隣人に怒られてしまうのである。佐野は終わったのだろうか。色々「確定」してしまった私にとっては、頭の悪い佐野だけが希望の光だ。私の心にはもはや後悔や諦めという気持ちはなくて、ただ同じ苦しみを味わう仲間が欲しいという悪い願いがあった。
 佐野は私の質問に対し、懐疑的な姿勢を示した。「なんで?」という言葉と、無表情な顔の絵文字と、疑問の顔の絵文字が送られてきた。疑問の顔というのは、片方の眉がつりあがっていて、まさに佐野の返信を見た私にそっくりだった。絵文字というのは、自分の気持ちに近いもの1つを送れば十分なのに。どこまでも頭が悪いな。むしゃくしゃして当たりそうになりながら、「いや、気になって」と佐野を丸め込むには丁度いい8文字を送信した。既読はすぐについた。画面の前で私が「なんで?」への返事を打ち込むのをじっと待っていたと考えると、俺の質問にどう答えるかな?と思っていそうで、やはりイライラしてくる。
「終わったよ」
は?



 佐野は元気そうだった。インフルも流行っていたし、どう考えても症状は重いはずだった。前髪をぎちっと七三で分けて、こちらに手を振りながら歩いてくる。私が、ご愁傷さま、とボソリとこぼすと、「いや死んでないわ、!」と気持ちの悪いツッコミを入れて、肩で大袈裟に笑った。ほんと佐野は、どこまでも、だな。マスクをしていた分、いくらか格好よく見えた佐野も、喋ってしまうと台無しである。佐野は、私のかじかんだ手を何気なく握って、「かっさかさだね」としっかり目を見て言い放った。ムカつくというよりも、その時ふと、こいつは今病み上がりなのだから力で勝てるかもしれない、と思った。佐野の手は暖かく、血がちゃんと通っている感じがした。数秒の沈黙の後、佐野は、ごめん、と薄く笑いながら言った。このやろう。
 駅までの道は景色が違うせいか、いつもより短く感じた。雪が程よく解けていて、明日には凍ってお前を転ばしてやろう、と言わんばかりにじわじわと音を立てて潰れていく。佐野は相変わらず、能天気にコンビニの揚げ物コーナーの話をしていた。この時期はコロッケの具が期間限定だとか、この前行った店の店員の名前が珍しいとか、何も考えずにたらたらと喋っていた。私も何も考えずに道路の脇のふわふわの雪を蹴りあげ、見事佐野の首元に乗せた。
「ち、ちべたっ。」
手でぱっぱと払う佐野は、下手なツッコミをしている時よりは面白かった。佐野も雪で対抗すればいいのに、なぜか濡れた手で私の頬を触ってきた。あんまり冷たくないし、ていうかなんでそんな手あったかいんだよ。佐野は、うひー、とか挑発しながらマフラーを緩めていた。

 佐野の家は狭かった。バイトを5つかけ持ちしているということから察していたが、お金に余裕はないらしい。机は汚いし、ごみ箱はいっぱいだし、ベッドシーツも4つ角の1つが外れていて、客をもてなすのには失礼すぎる部屋であった。でもかえって、生活感のある一般男子学生の部屋って感じで、悪くなかった。
「中嶋さ、」
佐野が突然切り出した。
「こういう部屋のやつどう思う?」
何だ。
「普通にやだわ。」
率直に言った。
「そっかー。」
佐野は明るい口調だったが、悲しさを隠していた。確かに部屋は、もしかしたら色々私に言わせるためにわざとこの状態でいたのかもしれない、と思わせるほど汚かったが。
「まあベッドはいいんじゃない、1箇所外れてるけど。」
いいというのは嘘である。目についたものを適当にフォローした。佐野は、あっ、とか言って急いで直すと、ありがと、と恥ずかしそうに笑った。
「このベッド、1番安いの買ったんだけどな。」
「そうなんだ。」
「うん。」
2人とも、例のベッドに腰掛けた。話題を用意してこなかった私も悪いが、体感で30秒程静かな時間が流れた。
「佐野ってさ」
また適当に言い始めてしまった。
「自炊とかするの?」
「じ、じすい?」
「自炊」
「なにそれ」
「自分でご飯作ること」
「あっ、あ~、じすい、じすいね」
絶対知らない。
「たまにするかな。あっでも、まずいけど、ね。」
意外だった。りんごの皮むきで流血事件を起こしそうなくらいには、ドジな印象が強かった。
「こ、今度つくろうか?」
なんと、佐野が言った。自分の料理がまずいと言った直後につくってあげようかと提案してきている。致命的なミスであり、同時に、佐野に人が寄ってこない理由である。佐野を少しでも人気者に近づけてあげるために、私は仕方なくつっこんだ。
「まずいんだったらいいよ。」
佐野は目をぱちぱちさせて嘆き出した。
「あっそっか、言ったね確かにまずいってそうだったー、いやごめん」
見るからに焦っている。なぜかこちらに少しの罪悪感がある。このままだとまた30秒がぬるっと流れてしまいそうだったので、必死に部屋を見渡し、知っているものがないか探していると、先に佐野が口を開いた。
「あのさ、」
赤い顔を私に向けた。
「俺と、どう。」
私が?佐野と。え。
「どうって。」
「だから……付き合うってこと。」
佐野は今にも泣きそうで、私も私で笑顔を抑えられなくて。
「いいよ。」
嫌だった。いや、嫌ではないけど、こんな、二つ返事みたいになっちゃって。佐野はほっとしたような顔で私に近い位置に座り直した。ほんっと、佐野はさ、
「しょうがないなあ。私も前から━━








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