吹奏楽の音に
何も 文を書くのはうまくないし、
ましてや自分の考えていること、感じていることを
自分でちゃんと察知して 言語化することも恐らく苦手なのだと思う。
なのでどうかご容赦ください。
わたしの、(もしかしたら)思考置き場だったり
暗かったりワケわからない話多めになるかも。
吹奏楽を聴くと、いやでも中学生の頃を思い出す。
中学生の頃、途中からはいやで堪らなくて
辞めたくて堪らなくて続けた部活だ。
まぁ、それはいいとして
現在22歳(学年的には23)の私は
未だに中学時代の幻に追われて生きている。
それは、ときに後悔であったり 劣等感であったりしたのだが、今は正しくあれなかったことの
痛みが大きい。
田舎の荒れた中学で、正しいはむしろ疎まれ
忌まれるような環境、価値観で
わたし自身も、正しいを見失いながら、正しい、を何より避けてきたように思う。
そんなことしたら、いじめられたり排除される一番の原因になるんじゃないか。
強くてきらきらした子が正しくあろうとするならともかく。
私は 社会性もないし、私が正しくあろうとしたり
それを主張したらあっという間に
浮いた存在になるだろう
(今思えば、正しいかどうかじゃなく、
自分の閉鎖的さが原因だとわかるのだが)
今、何の縁かわからず中学時代の同級生と
付き合い、ずっと封印して避けてきた中学時代に
向き合わざるを得なくなってしまった。
なぜなら、彼はあの環境で、
正しくあろうと常にどの瞬間もそうあってきたから
その痛み、強さを思うと
正しくあれなかった自分の弱さ、
正しさを考えもしなかった愚かさ、暢気さに
消えてしまいたくなるし、今 胸が痛んだってしょうがないのに
後悔が残る。いつだって中学時代を思い出すとき
いい気分でなんていられない。
それは楽しかったかどうかじゃなくて
自分がありたい姿(理想とかじゃなく)で
あれなかったから。
自分の思いを通さず、守らず
なんなら自分が何か思いを持っていることにさえ
気づかないようにしてきた。
だから空っぽなんだ。
ああ、痛いな
どうしたら あのとき正しくあれたのかな
吹奏楽を聴けるようになったのは、
辞めて何年も経ってから。
本当に結構長くかかった
あの頃、何もうまくいかなくて
しんどかったのは事実
だけど、でも。
なぜ ああ あれなかったのか
その後悔は わたしの今の課題になった。
これまでは、忌ま忌ましい思い出で
思い出したくもなくて、忘れようとした
それが、鈍い痛みの伴う後悔の思い出に
なったのは、ひとつの変化かもしれない。
これからに 生きるといいな。
正しくあること、
そのために、何が正しいか常に
自分の考えを最新の状態にして
考え続ける、深めることを忘れないで
心に迷わないようにしたい。
弱くてごめんね。強くなりたい
あの頃の私、今の私に。