『for hazuki』番外編その二「高校二年、二月某日、音楽室にて」
「はぁ、疲れた」
昼休みの音楽室に、葉月のため息が吸い込まれていく。午前最後の授業は体育だったので、それで疲れたのだろう。
「そういえば、女子の体育はバスケットボールだったっけ」
「ええ。よくあんなに走り回れるものね」
「確かに、運動部の人とかの体力はすごいからね。お疲れ様」
そして、僕らはそれぞれの弁当をぱくつく。最近は僕も葉月も、昼休みや放課後になると、決まって音楽室にいるようになった。昼休みは昼食をとったり、雑談をしたりして、放課後には、授業の予習復習やテスト勉強なんかを一緒にしている。
それと、やることができたからだろう。気付いたら、僕は最近ピアノを弾かなくなっていた。佐々先生からは時折茶化されるが、もうすぐ本当に辞職するようだし、最後のお茶目なのだろうから、僕は何も苦言を呈さないことにしている。
「暖房を点けても、やっぱり寒いね」
「二月だもの、仕方がないわ」
「そうか、もう二月か。すると春まではあと少しだね」
「あら、そんなに呑気でいいのかしら? 次の春には、私たち受験生になるのよ」
「それは嫌だな」
葉月は「あなたね……」とため息をつく。
「年を重ねるんだから、仕方のないことでしょう」
「いや、別に勉強がしたくないっていうわけではないんだよ。むしろ葉月と勉強するのは楽しい。強いて言うなら受験生って呼び方とか、空気感とかが嫌なんだと思う」
「そ……そう。それなら、分からなくもないわ」
葉月が照れて俯いてしまう。僕も後になって自分が言ったことに気恥ずかしさを覚えた。何と言うか、まだまだ僕らは初々しいままだ。そしてそんな気恥ずかしさを誤魔化すように、葉月は僕に問いかけてきた。
「そういえば、あなたの方はどうだったの? 男子は外でソフトボールをやっていたみたいだけど」
「僕の方? そうだなあ。あれは冬にやるスポーツじゃないって思ったよ。攻撃の時とか、自分の番が来るまでずっと立ちっぱなしで寒い中待っているのは大変だった」
「それは災難だったわね。それで、活躍はしたの?」
「全く。これっぽっちも」
「相変わらずね」
葉月が小さく笑う。とても可愛らしい。
「違わないね」
僕もつられて笑った。
「ねえ、あなたは進路とかって、もう考えているの?」
さっきの会話が一段落ついて、葉月が新しい話題を提示した。
「実はあまり考えてないんだ。文学部を受験しようかなとは、ぼんやり考えているんだけど、大学までは何も」
そう言って、僕は一応の候補として地元の大学の名前を挙げる。すると葉月が少しだけ嬉しそうに返してきた。
「あら、奇遇ね。私もそこに進学しようと思ってるの。心理学部のつもりだけど」
「そうだったんだ」
何という偶然だろう。でも、僕も何となく嬉しかった。
「それなら、僕もそこを第一志望にしようかな」
「そう。受かるといいわね」
「君もね」
「ええ」
窓から陽が差し込む。それは丁度、僕と宮部のいる席を明るく照らし出した。ぽかぽかとして心地いい。
「ねえ」
「何だい?」
「あなた、今日が何の日か知ってる?」
「えっと……あ、二月十四日か。今日は」
「そうよ」
二月十四日。聖バレンタインデー。世界各地でカップルの愛の誓いの日とされている記念日である。日本では、女性が男性にチョコレートを渡す、というのが一般的なイベントとなっている。
「すると……」
「……そうよ。これ」
葉月から渡されたのは、とても丁寧にラッピングされた、手作りのチョコレートだった。
「おお……チョコレートだ」
「当たり前でしょう。……だって、今日はバレンタインなんだから」
葉月はふいと僕から目をそらす。その顔はとても赤かった。
「すごく嬉しいよ。ありがとう」
「ええ。どういたしまして」
葉月から受け取ったチョコレートを見て、僕の心はほんわかと温かくなった。きっとこれが、いろんな物語で目にする、いわゆる愛の力というものなのだろう。
「……だけど、呆れたわ」
葉月は唐突にそんなことを言い出す。
「あなた、普通バレンタインデーのことを忘れる?」
少々ぎくりとした。でも、これは言われてもしょうがない。普段から日付を数えるのを怠った僕が悪いのだ。
「いや、バレンタインのことは覚えていたんだけど、日付を数えていなくてね」
葉月がため息をつく。「やれやれね」と言っているようだった。
「相変わらずね」
「……そうだね。でも大丈夫。次の十四日はちゃんと覚えておくよ。数えもする」
「ええ、楽しみにしているわ」
そして葉月は、いつもの調子に戻っていた。
「でも、感謝しなさいよ。これが私じゃなければ、今頃あなたは振られていたわよ」
「うん。ごめん。本当にありがとう」
「ええ。どういたしまして」
葉月は穏やかに、全てを抱擁するような優しさで笑う。
やっぱり、葉月には敵わないな。
そんなやり取りが終わるのと同時に、予鈴のチャイムが鳴った。午後の授業が間もなく始まる。僕たちはそれぞれの授業の準備をするために、教室に戻らなければならない。
「それじゃあ、また放課後に」
「ええ」
僕と葉月は教室の前の廊下で別れて、それぞれの教室へと入っていく。
自分の席についてから、周りの目につかないように(彼らは、騒ぐだけならまだいいのだが、嫉妬もしてくるのだ。彼らの精神ためにも、それは良くない)、もらったチョコレートを鞄に大事にしまう。
そして、わずかに頬が緩んでしまう。
午後の授業も、ほどほどに頑張ろうと、何となく、そんな気分になれた。
初出:『for hazuki』コピー誌版から「付録:『高校二年生の二月、音楽室にて』」
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