『for hazuki』後編
僕は何を血迷ったのか、気づいたら宮部が事故に遭った現場に来ていた。人気のない十字路だ。今ではきれいに掃除がされたのか、何事もなかったかのように、道路としての体をなしている。僕はそこから美術館の近くの駅までの道を歩いた。何も目に入らなかった。ただ夏のうだるような暑さだけが僕にまとわりついてきて、鬱陶しい。しかしちゃんと意識していないと、その鬱陶しさも忘れそうだ。駅に着いた。そこから僕は美術館まで歩いた。どうも僕は昨日宮部が歩いたであろう道をたどっているようだった。人は困った時には笑うしかないと聞いたことがあるが、今は果たしてそうなのだろうか。しかし僕は笑っていないから、その命題は偽だ。ここで僕が笑い転げていたら、きっと自分で自分を殺してしまいたくなるだろう。
僕は歩き続けた。ただただ歩き続けた。あてもなく、目的もなく。日が暮れても、到底家に帰る気にはならなかったので、家には友達と晩御飯を食べてくるから遅くなると伝えた。簡単に了承が得られた。
何も食べず、何も飲まず、ふらふらと歩き続けていたら、街のデパートなどが立て続けに並ぶ通りまで来た。しかしもう夜も遅く、デパートに明かりは灯っていない。何だかふらふらしてきた。ただ疲れたのかと思ったが、どうも熱中症のようだった。自販機で、あえて昨日買ったのと同じスポーツドリンクを買って、ゆっくり喉に流し込む。何度か吐き出しそうになったが、何とか飲みきった。きっとここに宮部がいたら、注意不足とか何とか、小言を言われるんだろうなと考えて、僕はたまらなく悲しくなる。僕はその場でしゃがみこみ、そしてわけも分からずに泣いた。
時計を見ると、もう九時半だった。現実を直視したくなかったけれど、仕方なく家に帰った。
それからのことはあまり覚えていない。気がついたら始業式の日になっていた。課題は早くに済ませてあったので提出することが出来たが、休み明けの考査は散々な出来だった。それから、どこかしらで(もしかしたら始業式でのことなのかもしれないが、僕は何も話なんて聞いていなかったので、よく分からない)宮部についてのことが全校生徒にアナウンスされたらしい。教室ではそれについての話がちらほらと耳に入ってくる。しかしその話はそんなに長く続くことはなく、すぐに夏休みの旅行のお土産話やテストの出来についての事に、話題はすり替わった。
「ごめん。これ、渡し忘れてた」
クラス長が僕に何やら紙を差し出してくる。生徒議会の招集状だ。始まる時刻は今から十分とされていた。
「ああ、ありがとう」
「あとそれとさ……」
「ん?」
「お前って作曲できるでしょ? いつも音楽室行ってるんだし、それくらい。文化祭で使いたいんだ。やってよ。フリー音源だといまいちパッとしないんだよね」
どうも彼は僕が音楽室によく行っているから、作曲などお茶の子さいさいなのだと勘違いしているらしい。そんな無茶で無謀な依頼を、安易にしてきたのだった。ちなみに、文化祭は一週間後である。
「無理」
「えー。そんなことないって。お前なら出来るって」
何を根拠に。全くもって気に入らない。
「申し訳ないけど、そもそも僕はそんなに音楽には精通していないんだ」
「まあまあ、作曲なんてちゃちゃっと出来るからさ」
「それなら、自分でやればいい」
それと、彼は全国の作曲家に土下座して回った方がいい。
「クラスのためなんだよ」
彼はクラスを掛け合いに出してくる。クラスのためという、言葉による同調圧力。気に入らない。そんなもので絆されるのはごめんだ。
「悪いけど、出来ないものは出来ないんだ」
「あ、そ。分かった」
会話がひと段落ついたので、僕は生徒議会のある教室に向かうことにする。すると、わざとなのかは分からないが、クラス長が舌打ちするのが聞こえた。それと、少しだけ周囲からの嫌な視線も感じた。ああ、気に入らないな。
いつもの教室に着く。もちろんのことだが宮部の席には変わりの誰かが座っていた。そして隣に座っているのは神崎ではない。でも、もし神崎がここにいたのであれば、僕はもうずたずたになってしまうだろうから、そっちの方が都合がいい。
生徒議会では文化祭について、いくつかの注意事項の連絡があった。その中には当日の服装についての話もあり、宮部の代わりの風紀委員の誰かが、そのことについて話していた。でも、本来だったら、あそこには宮部の姿があったはずなんだよな。僕はやはり現実が受け入れ切れないでいた。
そして、議会が終わる。すると僕の元に、今度は副クラス長がやってきた。クラス長と違って、どこか暗いイメージで、さらに高圧的というか、どこか偉そうな人だ。
「文化祭の音楽のことなんだけどさ」
「うん」
「お前、何も仕事やってないじゃん。そんくらいのことやれよ。お前一人だけ楽してんじゃねぇよ」
自分よりも下の存在を見下す目で、僕にそう言ってくる。彼からすれば至極真っ当である正論に、正直僕は辟易した。そもそも、根本が間違っているのだ。
「失礼だな。仕事はちゃんとやってるよ」
「どこが? 全然仕事してるところなんて見ないんだけど」
「そりゃそうさ。僕の仕事は会計だから、誰かから領収書を受け取らないと、これ以上仕事はできないし、それまでに必要な予算の計算は、もうとっくにしてある」
「知らねえよ。そんなの」
僕の話を、彼はその一言で一蹴した。
「あのさ、もっと精神的に賢く生きろよ」
そして何やら偉そうに、精神的に幼いことを言われてしまう。彼はどこか勝ち誇った顔で、相変わらず僕を見下していた。こういった手合いは相手にしないのが得策だ。
「……ああ、オーケイ。分かった。やるよ」
「ん。それじゃあ音源ができたらクラス長にでもファイルを送っておいて」
そして副クラス長は満足そうに教室を出て行った。生徒会の人が一人(この前の人とは違う人だ)、こちらを見ていて、何か信じられないものを見たような、どこか唖然としたような表情をしていた。でも僕にとって、それはどうでもいいことだったので、気にしないで教室を出ることにした。
そのまま家に帰らずに、音楽室に行って、ピアノの前に座る。やると言ってしまった以上、やっぱり出来ませんでしたと言い出すのは、それはそれでどうも気にくわない。だから早く終わらせて、このことは忘れてしまおう。しかし、肝心の劇の内容が何なのかを何も聞かされていないから、何を作ればいいのかは見当がつかない。
それと、そもそもピアノを弾く気になれない。ここでピアノを弾いてしまえば、今ここに宮部がいない現実を、受け入れる事になってしまいそうだったから。
でもやらなければいけない。ああ、こんな風になるんだったら、引き受けるんじゃなかった。かなり今更な後悔が襲ってくる。そして、今の僕を見たら、宮部はどう言うだろうかとか、そんなことを考えてしまった。今ここに宮部はいないのに。それなのに僕の思考の中には宮部の存在がある。
たまらなく辛かった。それは、一回得たものをまた奪われた辛さや苦しみにとても似ていた。
それなら、ここでピアノを弾いてしまって、この現実を受け入れて、また自分だけの世界に入った方が、まだ楽なのではないかと思って、藁にもすがる思いで僕は携帯電話のボイスレコーダー機能を起動させる。そしてピアノの前に座り、ピアノを弾いた。
しかし、ピアノを弾いていると、どうも宮部のことを考えてしまう。結局、ピアノを弾いている間、終始僕の頭の中には宮部がいた。
とりあえずは曲の体をなしているデータができたから、その音源を副クラス長宛に送信しておく。でも、僕自体が救われることは、やはりなかったのだ。
それから一週間が経って、文化祭当日を迎えた。僕のクラスの発表の出来は、事前の準備をおざなりにしたために、かなりぐだぐだとした、見るに耐えないものとなっていた。僕が用意した音源も何やら適当に扱われており、どうにもしっくりこなかったのは、言うまでもないだろう。本来の仕事である会計においては、買い出しの時にちゃんと領収書を用意しなかったことが何度もあったみたいで、計算が合わなくて散々苦労をさせられた。それなのにクラスの雰囲気は文化祭をやりきったという謎の満足感に満ち溢れていて、なんとも気に入らない。
それから大体一ヶ月後の十月中旬には、修学旅行があった。二泊三日の長崎の旅だ。何人かのグループに分かれて、長崎市周辺を散策する日が設けられていたのだが、僕のいた班はグループを組めなかった人の寄せ集めみたいな班で、結局ゲームセンターでずっと時間を潰すという愚行を犯し、なんとも意義のない修学旅行になった。そしてその間も、僕の頭の中では決まって宮部のことを考えていた。言うまでもないが、その頃宮部はまだ目を覚ましておらず、よって修学旅行には参加出来ていない。
修学旅行から数日が経って、少し周りも落ち着いた頃になっても、僕の夏休みはまだ終わっていなかった。それはだんだんと、苦しみや辛さとともに、ある種の困惑も、僕を取り巻くようになった。
僕がなぜ、宮部のことをこれまでにも考え続けているのだろうか。宮部はどうして、これまでも僕の中に留まっているのか。この感情は一体何なのか。それはあの日宮部が言っていたようなエゴなのかもしれない。僕が宮部を誘ってしまったから、彼女は事故に遭ってしまった。そのことを一人前に悲しむことで、自分の罪の意識を誤魔化しているのかもしれない。
ああ。そういうことだったのか。だけど、僕はそれが単なるエゴじゃないことも、ちゃんと知っている。それは宮部が僕に教えてくれたことだ。それがせめてもの救いだった。
そしていつの間にか、宮部は僕にとって、何か特別な存在になっていることに気づいた。その特別が、どういったものなのかは未だわからない。尊敬や畏怖なのかもしれない。あるいは……そういうこともあるのかもしれない。
しかし、宮部が帰ってこないと、何も答えは出ない。それまで、僕はただ無駄に考え続けているのだろう。
だから僕は、宮部がここに戻ってくることを、強く願った。
「おい。起きろ」
佐々先生に肩を揺すられる。どうやら僕は机に突っ伏して寝ていたらしい。確かに、音楽の授業で長々と楽典の話を聞いていたあたりから、記憶が曖昧になっている。時計を見ると、授業はとっくに終わり、昼休みの中間あたりを指していた。
「どうした。風邪か?」
「いえ、深夜アニメの見過ぎです」
「ダウト」即座に否定された。
「お前のことだ。あれやこれや考え込んで、眠れない夜でも過ごしてるんだろ」
「半分当たりで半分ハズレです」
「それじゃあ、残りの半分はそれこそ深夜アニメだな」
「ご名答です」
実際、考えごとをしているのも、考えることを止めようとして、無理矢理深夜アニメを眺めているのも事実だ。別に何もふざけていない。事実をぼやかしているだけ。
先生が僕から二つほど離れた席に座る。そして僕にこう問いかけてきた。
「お前、宮部のことはどこまで知っている」
「それは、どこまで答えればいいんですか」
「そうか」
それだけで、先生は全てを見透かし、理解したようだった。
「あのな、四年前はよぉ」
そして、唐突に昔話を始めた。
「俺は中学校で働いてたんだ。高校ではなく、な。それでその年、一年生のあるクラスの担任をすることになった」
そこで一息置き、ニヤリと先生は笑って僕に問いかける。
「お前、ここまで俺が言って、何が言いたいかわかるか?」
「自分が実はロリコンだったという話ですか」
「今年の単位は無いと思え」
失言だった。「まぁ分かんなくて良いけどよ」と話を続ける。
「俺はな、その年、宮部葉月の担任だったんだわ」
「そうでしたか」
分かるはずもない。世の中ご都合主義ではないのだ……とは言いづらい巡り合わせでもあるが。
「ああ。あからさまに驚かないあたり、お前は話しやすくて良い」
「そりゃどうも」
こんな風に褒められても、大して嬉しくもない。
「入学した初日から、あいつは異様な雰囲気を放ってた。それこそ、『世の中みんな敵だ』とか言って椅子でもぶん回す……ってのは冗談で、『誰も近づくな』そう暗に言ってるみたいでよ、だから、誰も近づかない話もしないって状態だった。そん時には、俺はあいつにどんな過去があるかってのは知ってたでよ、どうすりゃ良いか悩みに悩んだわけだ」
素の状態なのだろう。訛りが酷くなっていた。
「でもまぁ、それは杞憂だったわけだ。四月半ばに、近くの席のやつと班を作って、それで授業を受けることがあってよ。その様子を覗いた時、あいつは普通に周りと打ち解けてた。それからは、あいつに話しかける奴も出てきて、一人でいることは多かったけどよ、何の問題も抱えることなくしばらく過ごせていたんだよ」
そこで一つ区切る。そして唾を飲み込んでから、話をまた再開した。
「だけどよ、しばらくしてから、ある男子生徒が、あいつに執拗に話しかけるようになった。内容は……ここでわざとらしく区切ったんだで、お前も分かるだろ。あいつの過去についてだ。あの野郎、ジャーナリスト気取って、過去のことをほじくり返そうとしてやがった。俺も何べんも注意した。膝を付き合わせた事だってある。だけどあの馬鹿は辞めなかった」
先生はあえて、宮部の身に起こった出来事を「過去」とぼやかすようにしているのだろう。だから、いくらか不自然に聞こえても、僕はそれを気にしないことにした。
それからまた一息ついて、「だから馬鹿は嫌いなんだよ」と吐き捨てた後に続きを話し始める。
「するとどうなったと思う? そうだよ。とうとうあいつがキレた。ブチ切れとか、そんな生易しいもんじゃねぇよ。殺しにかかってるんじゃねぇかって勢いで、野郎のことを椅子でぶん殴った。丁度、体育の教師がそこを通ってたから運が良かったけどよ。もしあいつが歯止めの利かないやつだったら、確実にあの馬鹿は死んでたな。それからはまた逆戻り。あいつは孤立してった。しかも、あいつの過去の事は噂になりつつあったでよ。『人殺しの娘』の異名付きだ。全く、あいつ自身被害者だってのに」
それから、心底気分が悪そうに、先生は話を続ける。
「ガキってのは発想が短絡だ。悪魔の討伐みてぇな気分だったんだろ。あいつに対するいじめが始まった。お前も分かると思うが、これはとんでもねぇ大問題なんだよ。だから、俺ら教師共も、対策に当たった。俺の考えで、常にあいつと、その周りを誰かが見張っていられるようにした。けどよ、あれやこれやと行動に制限をかけられている安月給の公務員が、何が出来るってんだ。俺らは訴えられた。勿論訴訟とかじゃないけどよ、投書を書かれた。『生徒に精神的威圧をかけている』ってな。精神的な体罰って言われるやつだ。そうだよ。あいつをいじめてた奴らに、まんまとやられたんだ」
先生は「間抜けだよな」と自嘲気味に笑う。
「その頃、俺は精神的に参っちまってたんだよ。それでよ、そこら辺のがファクターになって、その年の一月辺りから休職した。まぁ、翌年には結構立ち直ったけどよ、それでも、中学で働くのはもう御免だった。だから、高校の教員試験を受けたら、なんと受かっちまったわけだ。それで、休職以来、滅多とあの学校に行くことなく、俺はこの学校に赴任した。それが、あいつが三年になった時だ。まさか一年後に、あいつがこの学校に入学してくるとは思ってなかったけどな。まぁ、あいつの中学校からは、ここ数年で、あいつ一人しかこの学校に来てねぇから、正しい選択だったんだろうけどよ」
先生の話が終わると、「なぁ」また唐突に先生が問いかけてくる。
「俺の人生の中で、最悪な選択を二回、したことがある。それはなんだと思う?」
一つ目の正解は、国語の問題。
「一つ目は、『休職して、中学校を辞めたこと』ですよね?」
「ああ、そうだ。そして二つ目は?」
酷くどうでもいい話だ。だけど先生の話だから、仕方なく考える。が、答えは思いつかない。
「それはな」
時間切れらしい。先生が二つ目の正解を言う。
「俺がお前に、この話をしたことだ」
「それを聞いて、安心しました」
僕はそうとだけ答えた。人の過去とは重いものだ。だから、それに対して先生が罪を感じていることに、僕は安心したのだ。
「いいか。だから俺はな、来年はもう絶対に教鞭をとることは無ぇ。絶対にだ。お前らが最後の生徒だ」
「……そうですか」
先生がそう宣言するのに、僕は気の利いた相槌が思いつかない。
「誇りに思え」
「分かりました。心の中のゴミとして取り扱います」
「お前本当に単位が無くても自業自得だからな」
そして会話が一段落する。しかし先生の機関銃トークは続く。
「お前はよ、これからどうすんだ?」
「これから?」
「毎晩毎晩深夜アニメを見続けるわけにはいかないだろ。宮部は今後戻ってくるかもしれないし、戻ってこないかもしれない。どっちにしろ、お前はあいつの事について……ってか、あいつ自身と、どう向き合ってくか。そういうことを考えてるんだろ」
「随分と生徒の事情に深入りする教師ですね」
「もう辞めるって決めたからな。何も怖くねぇよ」
男らしく自棄になっていた。しかし、先生は少しピント外れなことを言っている。
「もし考えがまとまってたら、見たくもない深夜アニメなんて見てませんよ」
「それもそうか」
そう穏やかに言うと、先生は立ち上がり、ドアの方へと向かう。そして、
「なぁ、知ってるか?実は俺はな、未来からやって来たんだ」
得意げにそう騙ってみせた。
「そうでしたか。どうしても見たい絵は見れましたか?」
だから僕も冗談で返した。
「それがまだなんだよ。だから、後四十年くらいはこの時代にいるつもりだ」
そしてとうとう先生は音楽室を出て行く。僕がやれやれと思ったその直後に、電話が掛かってきた。画面に表示された送信元を確認して、電話に出る。
「もしもし」
「もしもし」
「良かったよ。本当に、良かった」
「ええ」
電話は宮部からだった。それだけで救われた心地だった。これだけで、ほとんどが解決した。
それと、佐々先生は本当に未来人なのかもしれないと、少しだけ思った。
宮部の意識が戻ったことは、結構早くに校内に知れ渡ることになった。先日、宮部のクラスのクラス長が、お見舞いに行ってきたらしい。しかしそれ以降は、宮部のことが話に上がることは無かった。彼女のことは、ほんの一時の噂話にしか過ぎないのだ。
僕は一度だけ、宮部のお見舞いに行った。何を持っていけば分からないから、本屋でいくつか文庫本を見繕って、それを持っていった。すると宮部は「ありがとう」とお礼を言ってきた。やはり、僕は微妙にむず痒かった。
そしてそれから、宮部は怪我の回復を待ちながら、リハビリを始めた。どうもちゃんと復学できるのはもう少し先らしい。だから僕は、その間に一つ、自分の問題について解決させることにした。
「いきなり何?『話がある』って」
神崎はかなり鬱陶しそうに僕に言う。
「ちょっとだけ、昔話をしようと思ってね」
「下らない。時間を無駄にさせないでよ」
そう吐き捨てて、放課後の教室に僕一人だけ残して出て行こうとするので、仕方なく、僕は手持ちのジョーカーを一枚、彼女に提示する。
「宮部葉月の小学校からこれまでの話だよ。そしてそれは君にも関係ある話でしょ」
僕のその一言に、彼女は一瞬石化する。そして、これまで誰にも見せたことが無さそうな満遍の憎悪に満ち溢れた目で、振り向きざまに僕を睨みつける。
「あなたが何を知っているって言うの」
「大体のことを、君以外の約二人分の主観的な情報と、いくつか関連した記事を読んだくらいには知ってる」
そしてそれを基にして構成した情報は全てジョーカーだ。七並べのジョーカー。確実に手札を出し尽くすことが出来るが、勝者にはなれない。
「だったら聞かせてよ」
「オーケイ。それじゃあ、まず、事実の確認を」
そして僕は宮部の過去を、ほんの僅かな情報と、想像だけで、話し始めた。
「とある家庭に、双子の姉妹が生まれた。性は宮部、名前は姉の方が葉月、妹の方が華月。その家庭が少し周りと違っていたのは、父親が乱暴な事と、母親がそれに引きずられて子育てをおざなりにしていた事、そのために祖母がほぼ全ての面倒を見ていた事。そして、その頃君は、祖母に連れられた宮部姉妹とよく遊んでいた。合っているよね?」
神崎が小さく頷く。その目は未だ敵意に満ち溢れている。
「そして五歳になるまで葉月と華月を育ててきた祖母は、何かしらの理由で亡くなってしまう。それが、彼女たちの悲劇の始まりだった。祖母という抑止力が無くなり、自由になった事により、母親は覚せい剤に手を出す。父親は、娘二人に暴力を振るうようになる。彼女たちは、時代錯誤にも程があるけど、当時保育園にも、幼稚園にも入ってなかったから、その事実が浮き彫りになるのに、一年近くかかった」
僕は話し過ぎで乾きかけた喉を潤すように唾を飲み込んだ後、また話し始めた。
「児相のガサ入れがある二週間前辺りから、母親は家に戻らなくなった。父親も、もう暴力を振るうのに飽きたのか、彼女たちをベランダに放置して、それ以来、その存在を忘れたかのように、自堕落に過ごした。その頃彼女たちは、日頃の暴力……もう虐待と表現しよう。日頃の虐待によって弱り切っていた。食事も必要最低限以下といったレベルのものばかり。そんな状態でベランダに締め出されて、二週間ほど放置された。飲み水は猫避けか、非常用かの、いつのものか分からない水があったから、それを飲んだ。勿論食べるものなど無かった。そしてそれから約二週間が経って、飢えと脱水で弱り切った彼女たちは発見され、保護された。彼女たちは助かった。いや、正確には、『彼女だけは』助かった。季節が運良く秋だったから彼女は生きていたものの、もう一人は、宮部華月は、発見される数時間前に、栄養失調で亡くなっていた」
神崎と宮部本人から聞いた話に、一部週刊誌や新聞記事から得た情報を足して、彼女の小学校入学までの大まかな話を、ほとんどが一部脚色してあるが、完結させる。
「そして宮部は母親の姉、つまりは叔母にあたる人物に引き取られる。そしてしばらくして、彼女は小学生となった。新品のランドセルを背負って、黄色い帽子を被った彼女は、しかしその目つきは全てを敵とみなすように、重苦しく、攻撃的だった。彼女の心はこれまでの壮絶な日々と、妹の目の前での死によって、既に蝕まれていたんだ。さて、誰がそんな子に話しかけようなんてことを考える?いや、誰も考えないね。友達は百人も必要ないってみんな知っているから、そんなことする子はいなかった。しかし、ただ一人を除いて。そう、君だけは虐待を受ける前の宮部と友達だったから、彼女のそれからのことをあまり知らずに話しかけた。そして拒否された。君は彼女に忘れられていた。そして宮部は一人を選んだんだ。そんな風に、最悪のスタートを切った彼女は、それから六年間、孤独に過ごしていた。さて、ここまでが君の話した話だ。間違ってはいないね?」
「ええ」
そう神崎は短く返す。やはりその目は僕のことを睨み続けていた。
「さて、ここからが君の知りたい宮部葉月の中学校時代の話だ。何故なら、君は小学校は宮部と同じだったけど、中学校は違ったみたいだからね」
「そんなこと言った覚えはないんだけど」
「まぁまぁ、いいじゃないか。そういうことで」
神崎の悪意を真っ向から受け止めると、流石に滅入ってしまうので、軽く受け流しながら話を続けることにする。
「中学校に入学すると、やはり宮部は孤立していった……訳でもなかったらしい。意外と周りと打ち解けられていたみたいだよ。小学生だった頃の彼女を想像すると、にわかに信じ難いけどね。そうだったみたい。だけど、そうは問屋が卸さないってところかな。ある日、とある男子生徒が宮部から、あの虐待の日々について聞き出そうとしたんだ。それも長くに渡って、執拗にね。それで、とうとう彼女の怒りも臨界点を越え、その男子生徒を椅子で殴り倒す事態になった。すると彼女はどうなったと思う? 君でも想像つくでしょ?」
僕の挑戦的な物言いが癇に障ったのだろう。わざとらしい舌打ちとともに、「周りから浮いて、いじめを受けるようになった」とぶっきらぼうに答える。とうとう彼女の底も見えてきた。
「そう。彼女はいじめを受けた。『人殺しの娘』と呼ばれながら」
神崎が息を飲んだのが、すぐに見てとれた。それでも僕は話を続ける。
「いじめはかなり陰湿だったみたいだよ。……いや、まあ、陰湿じゃないいじめなんて無いんだけどね。あるとしても、お前の物は俺の物主義者の横暴くらいじゃないかな。僕らの周りには関係のない話だよ。おっと、話がそれた。さて、その『陰湿ないじめ』だけど、それは巧妙に根回しをされて、教職員にも、どうしようもなかったらしい。近頃体罰だの何だのってうるさいからね。僕が知ってるのは彼女が中学一年生だった頃の話だけだけど、そんな様子だったら、卒業間近まで続いていたんじゃないかな。そこらへんはどうとも言えないけどね。それで、彼女は同級生が誰一人受験をしていないこの学校に一人、入学してきて、今に至るって訳だ」
僕が話し終えると同時に、神崎は「そうだったのね。知らなかった。ありがとう」と心のこもっていなさそうな礼を言って、教室を出ようとするので、僕はそれを呼び止める。
「だけど不可解な点がいくつかあるんだ」
神崎がびくりと立ち止まり、生きる屍の如く振り返って僕のことを睨みつける。その目は「何があるっていうの」と言いたげだった。
「宮部葉月は中学校でいじめを受けた。でも普通、椅子で人を殴り倒すような人間をわざわざターゲットにするなんて、リスキーにもほどがあるんじゃないかな。そんなことして、いつ何時自分が、かの少年の二の舞になるか分からないからね。普通、彼女と関わらないということが最善だと考えると思うんだ。だけど、そんな彼女にいじめをすることに至ることの出来る条件っていうのが、大雑把に数えて二つある。それは、いじめる側の人間が、あまりにも頭が悪くて、愚者である場合と、彼女が脅威となる前に彼女をいじめたことがあって、彼女のいじめ方を心得ている、というか、彼女を脅威と感じない人間がいる場合だ。さて、この場合、どっちの方が現実味があるというか、可能性が高いと思う?」
神崎は何も話さない。いや、話せない。段々と神崎の目から怒りや憎しみの念が消えていくのを、僕は見逃さなかった。僕は追い討ちをかけるように話を進める。
「やっぱどちらがしっくりくるかって言ったら後者だよね。つまりは、宮部は以前にいじめを受けていたことがある。もしかしたら、過去に彼女とは何ら関係の無かった人が彼女をいじめるかもしれないと考えることも出来なくはないが、当時の彼女は一般的なそれには全く当てはまらないイレギュラーだっただろうから、いじめるとどうなるかも分からない。もしかしたら、返り討ちにあうかもしれない。いじめっ子ってのは意外とそこらへん巧妙だから、リスクがあることはしない。つまり、宮部をいじめるよりも、別のターゲットを探す方が手っ取り早いから、宮部には手を出さない。いじめっていうのは案外そういうものなんだよね。しょうもないマウンディングなんだ。このマウンディングって猿の群れとかでよく見るけれど、人間社会にも溢れかえってるんだぜ。やっぱあれかな、ダーウィンが進化論を唱えたのは、こういうのもあるのかな。おっと、また話が逸れた。さて、何を話していたんだっけ。そうだ、宮部が中学校でいじめを受ける前に、もうすでにいじめを受けた経験があるかもしれない……いや、もう断言しちゃおう。いじめを受けたことがあるって話だったね。するとどこでいじめを受けたか、それは君にもわかるよね?」
僕はまた神崎に答えを促す。神崎はなぜか苦虫を噛み潰したような顔で答える。
「小学校」
「そう。小学校。彼女は小学校でいじめを受けていた。誰にいじめを受けていたか、それはね、一人だけ僕の中で目処が立っている人がいるんだ」
長い長い前置きの後に、やっと僕はこの話の本題に入る。今の神崎からは敵意が消え失せている。そして、いつの間にか恐怖で怯えきった目をたたえていた。
神崎那月に、僕は告げる。手元のジョーカーを開示する。
「神崎、君は彼女を小学校の頃、いじめたことがあったね?」
それを聞いた神崎は、まるで餌を横取りされそうになった野良猫のように怒りをふつふつとたぎらせ、爆発させて食いつく。
「何でそんなことが言えるのよ!」
驚いた。こんな気力が残っていたのか。
「さっき僕が、宮部が少年を椅子で殴った後どうなったかを君に聞いた時、君はあまり考えずに『いじめが起きた』って返したよね。でもどうして?さっきも言ったけど、普通は宮部をいじめるなんて、そんな危ないこと考える人はそんなにいないよ。何べんも言うけど、同級生を殴り倒す危険人物には関わらないようにするのが吉だ。だから、返答としては『周囲から浮いた』これだけで十分だったんだ。つまりは、君はいじめが起きる可能性というのを、しっかり認識していた。それは、過去に君がいじめを受けていたか、特別いじめに対して関心があったか、宮部へのいじめをどこかで認識していたって考えるには十分な根拠なんだ。いじめを受けたことも、それについて考えたこともない人は、いじめなんて言葉は、魔法の呪文のごとく現実とは無縁の単語だからね。さて、この3つの可能性のうち、どれが一番しっくりくるだろう。君はいじめを受けたことは、無いね。きっとない。君は容量はいいから、身を守ることは器用にこなせる。そしていじめに対する特別な関心、無いね。覚えてる? 去年の個人研究の合同授業で誰かが『いじめの発生についてのメカニズム』って題で発表をしていたの。あの時、君は確か友達と一緒におしゃべりに講じてたよね。僕は君たちがうるさくて鬱陶しかったから、よく覚えてるよ。もしも君がいじめに対して特別な関心を持っていたのなら、ちゃんと話は聞いていただろうからね。すると3つ目、消去法的に、これしか考えられない」
僕はつらつらと騙る。効果はばつぐんだったようで、彼女は大ダメージを受けているようだった。でも僕は残っているジョーカーをひたすら、ずっと自分のターンで出し続ける。
「あと、もう一つの根拠は、宮部が中学時代の『人殺しの娘』って呼び方、これに君は特別な反応を示したよね。でも、それ以外の、さらに衝撃的な話には何も反応を示さないんだ。辛そうな顔ひとつしない。宮部の妹があと数時間前に助けられていれば助かったかもしれない話にも、ジャーナリストごっこの少年の話にも。宮部のことには過敏に反応すると思っていたけど、そうではなかった。だから僕はこう考えたんだ。君は『宮部のこと』が気がかりなんじゃない。『自分自身がかかわっている宮部のこと』が気がかりなんだと。つまり、この呼び方には、君の過去に何かしらの関わりがある。例えば、君が実際彼女のことをそう呼んでいたとか。だって彼女の過去を、小学生なんて幼さでちゃんと知ろうとするのは、ちゃんと知ろうとしたのは、君くらいのものだったのだから。考えられない話では無いだろ?」
神崎はもはや何も言えなくなっていた。なんだか気の毒にも思えてきたが、それでも僕はやめるわけにはいかなかった。自分のために、そして、願わくば神崎のために……
「君は小学校で宮部をいじめた。そしてきっと、中学校では宮部のことなんて忘れて過ごした。もし彼女のことを忘れていなかったとしても、彼女については意識の外に追いやっていた。そして高校に入学して、君は驚愕したんだ。なぜなら、そこに宮部の姿があったから。もう関わることは無いと思っていた、君の中ではもう過去の人物が、目の前にいたんだから。だけど、宮部は君のことを覚えていなかった。もし、宮部が君のことを覚えていたら、その上で君のことを恨んでいたら、君はどれだけ気が楽だっただろう。君はどうしようもない後ろめたさを感じた。もう、彼女に謝ることも出来ない。かといって、これまでのことを綺麗さっぱり忘れて彼女と関わることも出来ない。君の背中には薄暗い過去と、罪の意識と、後ろめたさが常に付きまとっていた。君は苦しかった。どうにかしたかった。そうしないと、自分がどうにかなりそうだったから。自分が壊れてしまいそうだったから。だけど、君から宮部に関わりに行くことは許されない。だから、彼女の周りに僕が現れた時、君は僕を排除しようとした。彼女の周りを飛ぶ悪い虫を追い払って、それを贖罪としようとした。結局、全ては君の自己満足でしかなかった。自分を正当化して、自分の過去を、いじめをしたという現実を、かつての友達を捨てた罪を、消し去ろうとした。決して宮部のためではなく、自分のためだけに動いた。つまり君はそれまでの人間で、自分本位の人間で、もうどうしようもなかったんだ。だから……」
僕は残り二枚のジョーカーのうち一枚を、新たに彼女に差し出す。
「君はもう二度と宮部葉月と関わることは無い。永遠に、死ぬまで、その罪が許されることは無い。君は罪の意識に、後ろめたさに、ずっとまとわりつかれて、生きていくしかない。それが今の君に残された、唯一の道だよ」
神崎はとうとう立てなくなって、近くに出しっぱなしにされていた椅子に座り込む。そして蚊の鳴くような声で「何で……」と一言だけ呟いた。
「何で僕が、ここまでのことを話せたのか、知りたいかい?」
神崎は、一瞬おびえた目で僕を見た後、小さくうなずいた。だから僕は、最後のジョーカーを、彼女に差し出す。
「実はね、ほとんど僕の出鱈目だったんだ。憶測でしかなかった。だから、ちょっとつついてみると、すぐにボロが出てくる。それが偶然、君の過去と合致したんだ。それだけだよ」
つまりは、ここまでの全てを、神崎は否定できたのに、肯定してしまった。自分で自分の首を締めてしまったわけだ。
神崎は、はっと僕のことを見上げた。何かを言おうと口を開いて、しかしその口からは何も出てこなかった。そしてまた俯いて、「ごめんなさい」と言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……!」
僕は何も言えなかった。何も言ってはいけなかった。だって、彼女のことは許してはいけないのだから。だからその代わりに、僕は教室を出ていく時、すれ違いざまに神崎の肩を優しく叩いておいた。廊下に出ると、もう日が沈み始めていた。背中からはかすかに、神崎のすすり泣く声が聞こえた。
こうして、誰が勝者になるでもなく、大団円が待っていたわけでもなく、僕の抱えていた問題には、終止符が打たれた。
怪我が回復し、リハビリも済んで、宮部が復学し、それから一週間くらいが過ぎた頃、音楽室には、ほとんどの人には関係の無い、いつもの光景が戻ってきた。ようやくだ。全く、一週間遅れて挨拶に来るとは何事だ。などと憤慨してみようかとも思ったが、自分のキャラクターに合わないのでやめておいた。
最初こそ滞在時間が十秒足らずだった宮部も、今では絶好の暇つぶしスポット、もとい自習室としてここを利用している。
「そういえば、佐々先生の事なんだけど」
ふいに宮部が僕に話しかけてきた。
「あの人は一体どういう神経をしているのかしら?」
「……と言うと?」
ピアノの手を止める。
「あの先生、私に美術館のチケットを二枚渡してきたのよ。『三枚で十分だから、余ったのをやる』って。本当、何を考えているのかしら」
「あー……」
きっと誰でも良かったんだろうな。そういえば、あの人は生徒の目を憚って、どうやって三回も美術館に行くのだろうか。知人との遭遇は大嫌いだと、過去に言っていたことを思い出し、なかなかアドベンチャーな人だなと思った。
「どうしろって言うのかしら……」
宮部がため息をつく。
しかし、それを見て僕は直感した。違う、誰でも良かったんじゃない、これは先生から僕に当てての悪戯じみた試練のようなものだと。本当に、あの人は何を考えているのだろう。ここで僕は宮部に対して、ある一言を言わなければならないけど、それはかなり酷な事だ。本当に、意図が全く分からない。いや、分かってはいるけれど、どうして僕にそれが絶対に出来ると、あの人は予見したのだろう。
能天気な思考を全てかき消して、僕は考える。今、ここで宮部に、たった一言を言ってしまえば、どんな結果であれ、全て解決する。気に入らない。先生はその後がどうなっても、それを受け入れろと、僕に暗に告げている。
これは宮部の心の傷に触れることになるかもしれない。トラウマに触れるかもしれない。そしてそれを宮部が受け入れてくれるだろうか。拒絶されるのではないだろうか。それが僕は怖くて仕方ない。
進むのか、退くのか、進んだ先は何なのか、退いて何を失うのか、守れるのか、分かった話じゃない。だけど、きっとここで退いたら、僕は宮部に対して永遠に気まずさを感じ続けるだろう。そして、神崎のようになるのかもしれない。あいつには失礼だが、そんなのは御免だ。
ちくしょう。結局、進むしかないんじゃないか。
「なぁ、宮部」
「何?」
宮部の反応も、以前に比べて穏やかになったものだ。
「もしよかったらなんだけどさ……」
少し躊躇ってしまう。だけど、ここまで言ってしまったのだから、言わないのは逆に不自然だ。
「また、二人で行かないか? 美術館」
そこからは意外とあっさりしたものだ。今までぐだぐだと考えていた事は何だったんだと言いたくなるくらいに。でも、まあ、それくらいが丁度いいのかもしれない。無駄がないというのは、時には良い事だ。
「そうね。多分先生もそうさせたかったんでしょう」
本当、僕の心配はとんでもない杞憂だった。
「来週の土曜日、前と同じ時間、場所で」
待ち合わせ場所には五分前に着いた。別に「ごめーんまったー?」「ううんーいまきたところー」なんて恋人ライクな頭の緩いやり取りをしたいわけではない。幼い頃の五分前行動的な教育の賜物である。それはともかくとして、僕が待ち合わせ場所に着いた時、宮部はすでにそこで暇を持て余しているところだった。
「やぁ宮部、おはよう」
「ええ、おはよう」
淡白な挨拶を済ませて、僕らはこれまた美術館に向かう。待ち合わせ場所の駅から美術館までの道のりは、この前と全くもって同じで、所要時間も同じだった。
受付で、三十路の一歩手前でコサックダンスを踊っていそうな、やや化粧の濃いおねえさん(って言わないと怒りそうな雰囲気の人)に、宮部がチケットを二人分渡す。おねえさんは僕たち二人をちらと見ると、一人にまっとしながら、その顔を営業スマイルに早変わりさせて「ごゆっくりお楽しみくださいませ」と僕たちを送り出した。
今回はこれまでの美術館の所蔵品の中から、えりすぐりを集めて展示する企画らしい。最初のでかでかとした挨拶文に、そう書いてあった。宮部は丁寧に作品の解説文を一つ一つ読みながら、作品を眺めていく。そして近くから眺めたかと思うと、少し離れてからまた同じ作品を眺める。そうやって展示物を網羅していく。だから僕も真似てみた。何か違った見方が出来るんじゃないかと思っただけで、決して宮部がやっていたことをただ単純に真似っこしたわけではないと、一人心の中で言い訳をしたことは言うまでもない。が、思いのほか新しい発見があったから、さっきのは言い訳ではないということにしておいた。
そうやっていくつか作品を眺めて、全体の三分の一くらいに差し掛かったところで、宮部がある一つの絵に見惚れていることに気づいた。それは二十世紀初めくらいの画家が、自分と恋人をモチーフにして描いた絵だった。絵の中で二人の男女は顔を寄せ合っている。男の体は大きくうねり、それが何か大きな感情を表しているようでもあった。
「何というか……不思議な絵ね」
誰に話すというわけでもなく(いや、実際には僕に語り掛けているのだろうけど)、宮部は呟いた。
「どうしてかは分からないけど、ただただ幸せだけを感じる絵だわ」
僕はそれに対して、「そうだね」としか答えなかった。僕も全く同じ感想しか抱かなかったからだ。そして宮部はそれをまたしばらく眺めた後、次の作品を見に行く。僕はその後も少しだけ、その絵を見続けた。
それからも同じように一つずつ作品を鑑賞していく。夏に比べて、客の数は少ない。それに演出された美術館ならではの静けさの中に、何人かの観覧者の靴の音だけがこつこつと鳴り、それがだだっ広い空間に反響する。時折、ひそひそとした話し声が聞こえてくるが、一緒に来た相手に作品の感想でも伝えているのだろう。それから、いかにもぱっとしない大学生くらいの男もいた。唐突に携帯電話を取り出し、耳に当て、背中を丸め、周りに背を向けた。男がすぐに電話を耳から離すと、近くにいた係員は彼に注意をしに行く。男は申し訳なさそうにぺこぺこ何度も頭を下げる。熱心に作品を見つめて、メモ用紙に鉛筆を走らせる女性もいる。そんな中で僕と宮部はこの前とは違って、各々の行動をとるのだった。
そんな中で宮部がまた一つの絵を凝視する場面に、僕は出くわした。その絵は大きなキャンバスに描かれた若い女性の肖像で、説明によると、作者の妹がモデルとして描かれているらしい。何か一点を見つめる、どこかあどけなさを残しているが、力強い光を持った目、柔らかな曲線を描く頬の輪郭、そしてちょこんと膝の上に置かれた白い小さな手、その全てが、柔らかく、繊細な筆使いで描かれていて、それらは、作者のモデルへの、妹への、並々ならぬ愛情を感じさせた。宮部はそれを何とも言えない顔をして眺めている。僕はただ何となく、何も言わずに宮部の横に立って、その絵を一緒に眺めることにした。宮部は僕のことをちらと見て、その視線を元に戻す。
「ねぇ」
どれくらいの時間、そこに立って絵を眺めていただろうか、宮部が不意に口を開いた。
「何?」
「ここを出たら、少しいいかしら」
「うん」
会話はそれだけだった。だけどこの数秒の会話は、きっと宮部にとっても、僕にとっても、何かの終わりの始まりを告げるものなのだろうと、格好をつけた訳でもないけれど、少しだけそう考えた。
美術館を出て一番初めに感じた十二月も間近の冬を孕んだ、乾いた冷たい風は、だれも入っていなくて熱のこもっていない夏の布団に抱きつくような、少しもごもごとした肌触りだった。宮部は美術館を出てからは「着いて来て」とだけ言って、何も言わずにひたすら歩いている。僕はそれを後ろからとことこと追いかけるような形になっていた。青いぶよぶよした生き物にも、おかしな電波のせいで暴れ出した犬にも遭遇せず、歩いて行く。
体感で大体三十分、町から離れた住宅街の隅の方に、家とマンションとで背中合わせにされた、小さくて、わずかに暗い児童公園があった。勿論、遊んでいる子供なんて一人もいない。野良猫すら住み着いていない。ここに来る少し手前で見た公園には、はしゃぐ子供たちとその親と、散歩中の犬とその飼い主とがいて、賑やかな休日を演出していたからだろうか、ここだけがこれまでの世界から隔離されたような、切り離されたような、置いてけぼりをくらったような、僕にはそんな感じがしてならなかった。
宮部はペンキの剥がれかけたブランコの少し向こうにある、これまた少し塗装の剥げた木製のベンチに、物言わずに腰かける。そしてその動作は、暗に僕に「あなたもとなりに座りなさい」と言っているようだったので、僕もゆっくりと宮部の左隣に腰掛ける。ベンチの冷たさが僕らの体温と中和されるくらい、二回ほど強い風が吹くくらい、葉っぱが自然に一枚ひらひらと落ちるくらい、そのくらいの間、互いに何も喋らずにいた。
「ここは、昔私たちが祖母に連れられてよく来ていた公園なの」
宮部の語り出しは唐突だった。だけど僕は別に驚くわけでもなく、ただ淡々と、宮部の話に耳を傾ける。
「この場所に祖母が座っていて、私と華月はそこのブランコをどれだけ高く漕げるかを比べたり、走り回ったり、そこら辺の子供と変わらない遊びをしていた。時々、近所に住んでいた子とも遊んでいた。確かナツキちゃんって名前だったわ」
僕の脳裏には神崎那月の名前が思い浮かぶ。だけど、宮部がこのことを思い出したところで、神崎と宮部が仲良くなる未来は無いんだよなと、少し寂しく思った。
「でも、祖母が死んで、それから私たちの生活は一変した。まともに食事にありつけない日がほとんどで、暑さに悶えるか、寒さに震えながら眠る日ばかりが続いた。それはあなたにも前に言ったわね」
「うん」
宮部はそこで言葉を区切った。きっと、ここから先が宮部の本当に話したい事なのだろう。僕は宮部が、それを話し出すまで何も言わずに待っていた。
「私が助かった日の前の夜は、珍しく、とても冷える夜だった。私たちは真夏の格好そのままで外に放り出されていたから、二人とも寒さに震えてて、それで、お互いを抱きしめあって、体を温め合っていた。日が昇って、少し暖かくなって、それで私たちは、やっと、眠りについた。眠る前に華月は、私に『ありがとう』って、そう言ったの。私はてっきり、さっきの温め合いの事だと、そう思っていたから、特になんという事なしに、『どういたしまして』って、答えたわ。そして、二人で眠った。それから、華月は、二度と目覚めなかった」
次第に宮部の声は震えてきて、途切れ途切れになる。僕が何か言えるような状況ではなかった。だから僕は黙って彼女の話を聞き続けた。
「こう考えずにはいられないの。あの時の『ありがとう』は、そんな些細な事じゃなかった。あれは、私への最期の挨拶だったんじゃないか、って。もしそうだったら、何で、私はあんなにそっけなく答えてしまったんだろう。『きっと助かるから大丈夫』って、どうして、言ってあげられなかったんだろう。それに、どうして……」
宮部のその時の顔は、まさしく、苦しみそのものだった。
「私は、そのことを、ついさっきまで、忘れてしまっていたんだろう」
さっき見たあの肖像画が、僕の意識の中を早足に横切って行った。
「どうして。最愛の妹だったのに。その妹の、最期の、言葉だったのに。何で、何で……」
これまでも途切れ途切れだった宮部の声に、やがて悲しみの色が浮き上がってくる。
「ねぇ、教えて」
宮部の何かにすがるかのような声は、僕に向けてのものなのか、それとも、誰に向けたものでもない、単なる独白なのか、もう既に、そのどちらなのかの判断が、僕には出来なかった。
「『愛』って何?『愛される』って何?」
宮部は、今にも泣き出しそうだった。
僕は、宮部を抱きしめた。
僕は一体、何を考えているのか、あるいは、何も考えていないのか、そのどちらなのか分からなかった。これから、何を自分が言い出すのかも皆目検討がつかなかった。上着越しに宮部の体温を感じて酷く動揺していた。自分の思考を全く整理できていなかった。だけど、僕の体は、宮部を抱擁することをやめない。そして右手で宮部の頭を優しく撫で始める。体が自分の意識から離れて、勝手に動いているような心地だった。そして、これは無意識なのだと、何となく直感した。その辺りから、自分のぐちゃぐちゃとした思考も落ち着いてくる。宮部はいきなりの出来事に驚いているようだった。宮部に気づかれないように僕は深呼吸し、そして、宮部の問いかけに対して、僕なりの答えを導き出す。
「それはきっと、君のお祖母さんがこうやって君の頭を撫でてくれたこと。君が妹とこうやって寒い夜に体を温め合ったこと。そして、僕がこうやって君のことを抱きしめていること」
宮部は驚いたまま目を見開いていたが、やがてその目を伏せ、僕にしがみ付いて、これまでに堪えてきたものを全て出し切るように、それはさながら、幼い子供のように、声を上げて泣いた。
ぼくは宮部が泣き止むまで、ずっと彼女の頭を撫で続けた。
どれくらいの時間が過ぎたかは、それを図る余裕がなかったから分からない。しかし、宮部はそれなりに長い時間、泣き続けた。
「落ち着いた?」
「……ええ」
宮部の声の調子も、元に戻ってきたので、僕は宮部への抱擁を解いた。これ以上そうしているのは、なかなか気恥ずかしいというのもある。宮部もそうだったのか、僕のことをつかんでいた手を離して、少し目をそらす。
「ごめんなさい。服を汚してしまったわ」
「別に、このくらいどうということもないよ」
それから互いに、寡黙の人となる。正確には、どちらも何を言いだせばいいのか分からない状態だった。そしてそんな沈黙を破ったのは、宮部の方だった。
「ねえ」
「何?」
「さっき、『僕がこうやって君のことを抱きしめていること』って言ったけど、これは何なの?」
ぎゃー、と心の中で叫んだ。確かにそんなことを口走った気がする。いや、確かにその気持ちは本物だけど。
「えっと、そのまんまの意味だよ」
「つまりは、あなたが私のことを愛している、と?」
「そうだね……うん。そういうことだね」
そして、僕は気恥ずかしさで、宮部は、何が理由かは分からないが、それぞれ口籠る。それから、僕はやっと、あの時の佐々先生からの問いかけへの答えがまとまったことに気づいた。
「宮部、僕は君のことが好きだ」
宮部はいつものようにため息をつく。でも、そこに初めて会った時のような刺々しさは無かった。
「……何でかしら」
僅かに困惑の混じった声色だった。
「何で私は、あなたを好きになってしまったんだろう……」
その日、僕らは多分、恋人同士になった。だけど、僕らにその実感はなく、だから何の幸福感に包まれることもない。ただ二人の間にはその事実が、見えないまま横たわっているだけだった。
僕らが本当に恋人同士となるのは、その次の日の話。
宮部に告白をした次の日、僕はまた宮部と待ち合わせをしている。待ち合わせ場所は街を少し外れた無人駅の改札だ。宮部は、待ち合わせの時間を過ぎているが、まだ来ていない。休日にこんなところに来る人はそういないらしく、駅構内に向かう人は何人も見かけるが、改札を出てくる人は全く見ていない。改札を通って行く人々の視線が、少しだけ痛かった。
待ち合わせの時間から二十分くらい過ぎて、電線の小鳥を眺めるのに飽きてきた頃、宮部はよろよろと改札を出てきた。少し顔色も優れない。きっと昨日は眠れなかったのだろう。あの時、少し酷なことをしてしまったのかもしれないと、僕は少しだけそう思ってしまった。
「待たせてごめんなさい。さ、行きましょう」
いつもの調子で、宮部は歩き出した。僕はまた、宮部に連れられる形で、目的地へと向かう。
役目を終えてそのままになっている田んぼが道の両脇にそびえる。風は昨日よりも一層冷たくなり、遮るものもなく、僕らに体当たりをしてくる。だけど、宮部も僕もそんなことは気にせずに、ただ歩いている。
昨日、一連の出来事の後に、宮部に明日少し付き合ってほしいところがあると頼まれた。そして、待ち合わせ場所と時間を指定されて、それ以外は何も言われなかった。その時の宮部のどこか強い意志を持っていてかつ、僅かな迷いも内在させているその目を前にして、ずげずけとそれより先のことに足を踏み込むような野暮なことは、僕にはとても出来なかった。だから今現在、僕は何も聞かずに、宮部の後に続いている。
そのまましばらく歩き続けていると、やや角度が急なアスファルトの階段が現れた。その階段を宮部は、何の躊躇もなく、ただ淡々と登っていく。僕もそれに続く。階段の両側には、初めの方はいくつかの民家があったが、しばらくそのまま登っていくと、民家は墓地へと変わっていった。何とも不気味な場所である。
初め、宮部は何食わぬ様子で階段を登っていたが、だんだんと進んでいくにつれ疲れてきたのだろうか、少しよろつきだした。きっと寝不足が影響しているのだろう。しかし一体宮部は、それでもなお、どこに向かおうとしているのだろう?
「宮部」
「何?」
「少し休憩しよう」
「……そうね」
宮部は思ったよりも素直に、僕の提案を受け入れた。しかし辺りを見てみても、ベンチなどという代物はどこにも無い。しまったな。僕はともかく、宮部を地べたに座らせるわけにはいかないぞ。
しかしそんな心配をよそに、宮部はぺたりと階段に座り込む。そして「あなたは座らないの」とでも言いそうな眼差しで僕のことを見てきた。いらない心配だったみたいだ。僕は宮部の横に座る。階段が急だったおかげで、座る姿勢は少し楽だ。階段を上っている足音も無くなってしまったので、より一層辺りは静かになった。
風が弱まったことと、照りつける昼の日差しのおかげで、さっきよりも気持ち暖かく感じられるようになった。僕はちらと宮部の様子を伺う。昨日から様子を伺ってばかりだなと、おかしいというか、何か変な感じがした。それはともかく、宮部は自身の膝の上であの時と同じベージュの鞄を抱え、斜め下に俯いている。僕は何か声をかけようかとも思ったが、彼女が何を考えているのかが、皆目見当がつかなかったので、かける言葉が何一つも思いつかなかった。だから僕も黙ってまっすぐ前を見続ける。目の前の景色に、僕の興味をひくようなものは無かった。静寂は続く。
「今日……」
宮部が口を開いた。これもどこか身に覚えのある状況だ。
「あなたを本当に連れて行こうか、最後まで、今の今まで悩んでた。もしかしたら、あなたに嫌な思いをさせてしまうかもしれないから。だから、今どこに向かってるのかも言い出せなかった」
そこで宮部は言葉を止めた。僕は待つことにする。きっと話すにも覚悟がいるようなことなのだろうから。どのような覚悟かは僕には見当もつかないが、彼女なりの覚悟が。
「今、私たちが向かってるのは、母のいる更生施設なの。今年の春に、繁華街の路地裏で倒れているのが見つかったらしいわ。その時にはもう、母は廃人の一歩手前のような状態だった。驚いたわ。私は、もう母はとっくにどこかで死んでしまったと思っていたから。それで、私は母と再会したの」
その後、呆れ気味にため息をつく宮部。その調子は、僕が彼女に初めて会った時の、人をどこか嘲るような感じに似ていた。
「馬鹿な話よね。一度私たちを捨てた人間に、もう一度会ってみたいって思ったのよ。それが自分を傷つけるなんてことを、全く考えないで。ただ、『母親に会いたい』って。生まれた時から、ずっと、私とその人は、本当の家族になった瞬間なんて、一度もなかったのに」
この出来事があったのは、きっと宮部を保健室に連れて行った、あの頃にあったのだろうと推測した。僕は黙って聞いている。相槌も打たない。
「そして、数年ぶりに見た母は、私の記憶の中の人物とはかけ離れていた。でも、それは私も初めか想定していたことだから、大して驚かなかった。『ああ、やっぱり』って、少し哀れに思っただけ。すると『あなたはだれ?』と母に聞かれた。私は成長していたし、母の記憶も曖昧になっていたんだと思う。私のことを、母は自分の娘と認識できていなかった。だから私は、『あなたの娘の葉月です』って答えた。すると母は『そうなの。かづきは?』って返したの。驚いたわ。まさか私たち二人のことを覚えているとは思ってなかったのよ。でもあの人は、華月がもう死んでしまったことを知らなかった。私は無性に腹が立った。仕方のないことかもしれないけれど、その『仕方のなさ』に腹が立ったんだと思う。だけどその怒りは母にぶつけるものじゃないって分かっていたから、私はその怒りを何とか心に沈めたわ。まだ、我慢ができたから。私は、華月はもう死んでしまったことを、母に話した。すると母は『そうなの』とだけ言った。自分の娘のことなのに、他人事のようだった。私には分からなかった。あの人が華月が死んだことをどう認識しているのか。ただの他人事なのか、死というものを認識できなかったのか、それとも、あの人にとって、娘とはそういうものなのか。それで、しばらくお互い何も言わなかったわ。だって何も話すことがなかったんだもの。でも、現実って、そんなに甘くはなかったみたい。母は唐突に、私に尋ねてきたわ。『あなたは、いま、しあわせなの?』って」
宮部の声に、確実な憎悪がこもる。そして、静かに怒りを爆発させた。
「冗談じゃないわ! 私は、あの両親のせいで、妹を、どこにでもあるはずだった幸せを、私自身を、失ったのよ! 奪われたのよ! あの父親のせいで! あの母親のせいで! それなのに! どうして、『あなたは幸せなのか』なんて聞けるのよ……」
そこまで言い切ると、彼女は息を切らしていた。肩は静かに、大きく上下し、僕の耳には荒い息づかいが聞こえてくる。それは、不器用に苦しみ、もがき続ける、人間のリズムそのものだった。
「その後、私は何を言ったか覚えていない。多分、今と同じようなことを言って、施設を飛び出したんだと思う。手が出なかっただけましだったわ。気付いたら、こうやって階段に座り込んでいた」
僕はとうとう何も言わなかった。普通は、何かここで気の利いた言葉をかければいいのだろうが、そんな国語のテストのような野暮な真似はしたくなかった。客観的に見れば、たまらなく身勝手な気もしなくもないが、それが僕にとっても、宮部にとっても自然なのであって、それを侵すのは許されないことだった。だから、僕は何も言わなかった。その代わりと言うと何か変な気もするが、僕はそっと、宮部の手を握った。誰に気持ちが悪いと言われてもいい。僕はとにかく、こうするべきなのかもしれないと直感しただけだった。宮部は、何も言わずに、僕の手を握り返す。それに、僕の選択はたぶん正しかったのだと、少し安心させられた。
しばらく、僕と宮部は手をつないだまま、それ以上何も話さずに、しばらく座り続けていた。いつの間にか、風がまた吹いていて、わずかに雑草が揺れていた。その風と、座っていて動かなかったからなのだろう。座り始めた時よりも、少し寒くなったように感じた。だけど、宮部と繋がれた手だけは例外で、むしろ、少し熱い。
「ねえ」
「何?」
「過去の辛い記憶は消えない。現実はいつまでも、私に付きまとってくる。それでも、私は、これまでのことに、一区切りつけたい。決着をつけたい。だから、母に会いに行くの。だけど、怖い。また、私は逃げ出すかもしれない。だけど、ここで逃げたら、私は永遠に前を向けない。幸せを知ることは出来ない。だから……」
そして、今日、会ってから初めて、いや、この前の三月に出会ってから初めて、宮部は僕の目を見て言った。
「私が母に会うとき、一緒にいて欲しい。ついてきてくれるかしら?」
「うん。もちろん」
「……良かった」
宮部は安堵のため息をつく。そして、
「ありがとう。だいぶ休めたし、気持ちも落ち着いたわ。行きましょう」
「ああ。行こう」
僕たちは自然に繋いでいた手を放し、休憩する前と同様に、僕が宮部の後ろについて、何も話さずに階段を登り始めた。ただ、さっきよりは宮部の足取りは快調で、僕も気持ちが少し楽になっていた。
墓地を抜けると、また辺りには民家が並ぶようになっていた。旧式の給湯器のやや濁ったパイプや桜の模様の入った何とも古めかしいく美しい摺りガラスを横目に、僕たちは階段を登る。階段を登り切ると、今度はなだらかそうに見えながらも、歩きや自転車では登るのに苦労しそうな坂が現れた。今度はその坂道を登っていく。なかなかに大変だ。精神のたるんでいる都会っ子をここに連れてきたら程よい修行になりそうだなと、心の中で呟いて、僕はそれが自分じゃないことをひっそりと願った。
駅から出発して、一時間半くらい経ったころだろうか。目的の建物へ到着した。その建物は、いやに形がかくかくと整っていて、澄んでいて、かつ濁っている白色だった。そんな感想はさておき、僕と宮部は一緒に建物に入り、宮部が受付で手続きを済ます。僕はそれを待ちながら、清掃員らしきモップを持った中年女性に軽く会釈をした。その人は少し怪訝そうな顔をしていた。
受付での用事を済ませた宮部に連れられ、僕は施設の廊下を進む。エレベーターの前につくと、ちょうど上りのエレベーターが僕たちのいる階に到着した。僕と宮部はそれに乗る。宮部は三階のボタンを押して、エレベーターのドアを閉める。僕たちを乗せた箱はだんだんと引っ張り上げられ、目的の階で止まった。その間には、誰ともすれ違わなかった。
目的の部屋の前に来る。僕はあえてその部屋の名前表示の札を確認しなかった。宮部は部屋のドアをノックしようとするが、その顔はやはりと言うべきか、緊張の面持ちだ。声をかけようと思ったが、その前に、それを察した宮部に「大丈夫」と言われたので、やはり何も言わずにいることにした。こんこんこんこんと四回、宮部が扉をノックする。返事は帰ってこない。宮部はそれを長々と待つことはせずに、扉を開け、部屋に入っていった。僕もそれに続く。
部屋の中で、その人は上半身の部分だけ起こされたベッドにもたれて、窓から外を見ていた。その窓からは、僕たちが登ってきた階段とその周辺の墓地、民家群、そしてその少し向こうに小さな町が見えた。その人は、扉の開閉の音に反応して、入口の方に、つまりは僕と宮部の方に向く。その目はとろんと虚ろで、口は半開きで、無表情だった。しかし僕たち来客の姿を認めると、その表情はわずかに笑顔となった。
「こんにちは」
彼女は少し舌足らずに言う。その声は掠れていて、ザラリとした感触だった。
「ええ、こんにちは」
「こんにちは」
僕と宮部も挨拶を返す。そして宮部はベッドの傍らの椅子に座り、僕はその一歩斜め後ろに立ったままでいた。
「あなたたちは?」
その人は僕たちに問いかける。どうやら、宮部の顔自体は覚えていないらしい。僕が宮部の様子をちらと伺うと、宮部は少しうっとなりながらも、それでもわずかに笑顔をたたえて、「あなたの娘の葉月ですよ」と返した。僕も彼女の同級生として挨拶する。ここで「彼女の恋人です」と自分を紹介する度胸が、僕には無かった。少し悲しい。
そして宮部は「いい天気ですね」と彼女の母親に話しかける。彼女の母も「そうね」と返す。その後はどちらも、何も話さない。どうも宮部の母は宮部の妹の事については聞かないようだった。それは、彼女が宮部の妹の出来事を、しっかりと認識できているからなのか、それとも、その存在自体を忘れてしまっているからなのか、僕にはその検討がつかなかった。ただ、前者であってほしいと、僕は願った。そして、時が来る。
「ねぇ」
宮部の母は宮部に問いかける。
「あなたはいま、しあわせ?」
それに対する宮部の態度は落ち着いていた。よかったとは思うものの、それで完全に安心出来たかと問われたら、僕の回答はノーだ。彼女はまだ、自分のひざ元をじっと見つめ、手をぎゅっと握り、わずかに思いつめたような顔をする。放っている空気は僅かにその質量を増していて、彼女の平常が少なからず侵されていることを表していた。
でも、宮部はそれを乗り越えた。彼女は小さく深呼吸をし、そして、その顔に笑みをたたえて、穏やかに言って見せた。
「ええ。もちろん」
それから少し振り返り、僕を一瞥して続ける。
「だって、こんなにも素敵な恋人がいるのよ?」
その時、僕はどんな顔をしていたのだろうか。きっと、これまでに無いくらい間抜けた顔をしていただろう。兎にも角にも、やられたなと思った。本当に、宮部には敵わないと思った。それと同時に、彼女のことを愛おしくも感じた。
それから、宮部も、宮部の母も、お互いに何も話さなかった。そして部屋に入って二時間くらいが経過したころ、宮部は立ち上がった。
「それじゃあ、もう私たちは行くわ。さようなら。お母さん」
僕と宮部は部屋を出た。最後に、僕はやっと、名前の札を確認した。そこには「宮部ゆかり」と、暖かな字で書かれていた。僕はさっき、宮部が幸せだと彼女の母に告げた時のことを思い出していた。宮部の母は娘の話を聞き、「そう」と微笑み、そして「よかった」と加えた。
やっぱり、あの人は宮部の母親だったんだなと、僕は思った。
施設から出て、今度は来た道を逆に歩いて行く。あの階段を降り切って、何もない田んぼが両側にそびえる道を歩くころには、日が沈みかけていた。僕と宮部は行きとは対照に、隣に並んで歩いているが、しかし行きと同じように何も話さないでいる。
その日の役目を終える前に、辺りを橙に演出する太陽を見て、僕は不意に立ち止まってしまった。数歩進んだ宮部もそれに気づき、僕の方へと振り返る。僕はぽつりと呟くように、宮部に語りかけた。
「なあ、宮部」
「何?」
「幸せって、一体何なんだろう?」
さっきからずっと、そのことばかりを考え続けていた。いや、もしかしたら、ずっと前からかもしれない。でも、その疑問が明確に頭の中をよぎったのは、ついさっき、宮部が母親からの問いかけに答えた時からだった。
幸せとは一体何なのか。それは愛の中に生きることなのか、豊かな思考の中に生きることなのか、それとも、何不自由感じることない、豊かな世界に生きることなのか、どれが正しいのか、分からなかった。そして、それに付属するものも。愛とは何か? 僕は宮部に対して、愛を語ったにもかかわらず、それの本質は全く分からない。豊かな思考とは何か? 僕らは何を考え、何を追い求めるべきなのか。それも分からない。豊かさとは何か? その豊かさの基準、それが精神的なものなのか、物質的、質量的なものなのかも、僕には分らない。分からに事だらけだ。そして、僕は何が分かっていて、何が分からないのか、それすらも分かっていない。
そうやって頭の中がこんがらがり、悶々としてくる。僕は今幸せなのか、そうでないのか、その線引きが曖昧になってくる。僕は幸せで、それと同時に不幸せでもある。それは、観測したらどちらか一方の事象のみになる訳ではなく、観測しても、観測できてもなお、二つは重なり合っているように思える。
こんなこと、考えたくもなかった。こんなことを考えてしまったせいで、僕は今、幸せというものを疑っている。疑ってはいけないものを、疑ってしまっている。ついさっきまで何とも思っていなかったのに、自分は今、もしかしたら幸せではないのかもしれないと思ってしまっている。
そしてその思考は自分の中を飛び出し、他の人間にまで及ぼうとしている。はたして彼女は本当に幸せなのか。あれは嘘だったのではないだろうか。馬鹿げている。宮部の幸せを僕が定義付けようとしている。身勝手に。底なしの沼にはまっているような心地だった。
「はぁ……あなたねぇ」
宮部はやれやれといった様子でため息をつき、首を横に振る。
「そんなもの、分かるわけないじゃない。考えるだけ無駄よ」
首が浸かりつつあった所で、沼から引きずり上げられた。
「幸せなんて、言葉でしかないのよ。そもそも、幸せなんてものは無いんだから。無いものに意味を求めて、定義付けようとしたのは、そっちの方が都合が良かったからってだけなのよ。だから幸せは、確実性なんて無い、質量も持たない、曖昧で抽象的な代物のままなのよ。それでいいの」
僕はただ宮部のことを見つめ続けてる。彼女の言葉は、これまでのどんな言葉よりも、どんな音よりも、深く、自分の奥底へと、すとんと落ちていった。宮部は微笑む。
「観念なさい。考えるだけ無駄よ。答えの出ないものは、見るか、感じるかしかないわ」
「少なくとも……」
宮部はこちらに歩み寄りながら続ける。
「私は今、幸せよ」
「そうか。良かった」
これだけしか言えなかった。
前に、「幸せのことを『幸せだと感じたら幸せ』などと言う者がいたら、そいつは幼稚なやつだ」と誰かが言っていたのを覚えている。当時の僕は、それに僅かな違和感を感じているだけだったが、その答えを、やっと与えられたように感じた。確かに、考える葦の思考としては幼稚かもしれない。でも、そっちの方が、よっぽど確実に、幸せになれる。幸せになることを、許される。
「葉月」
「なっ……何?」
いきなり名前で呼ばれたことに驚いたのだろう。宮部はきょとんとして、返事も少しずれてしまった。何とも可愛らしいものを見たと、僕は一人で、ひっそりと満足感に浸る。
「僕は、いつ、君の幸せが形を変えたとしても、君の幸せを守ってみせるよ」
宮部は、一瞬呆気にとられて、それから可笑しそうにくすりと笑った。
「何よそれ。まるでプロポーズじゃない」
言われて、僕はやっと気付く。言われてみれば確かにそうだ。そして、それに照れてしまう辺り、僕もまだまだだな。
「ねぇ」
宮部は少し悪戯っぽく笑った。
「私、まだちゃんとした返事をしていなかったわよね?」
何を、と一瞬聞きそうになったが、ああ、そういうことかと思いとどまった。
「もう一度やり直しましょう。あなたの告白」
「うん。そうしよう」
「私を、幸せにしてちょうだい」
「ああ、勿論」
そして僕はまた、照れながら宮部に告白をする。宮部も顔を赤くしながら、それにこくりと頷く。
そして、僕と宮部はとうとう、本当に、恋人同士となったのだった。
あれから何年かが過ぎた。大学生になってしばらく経った僕と葉月は今、とあるマンションの少し小さな部屋で同棲している。高校生の恋愛は長続きしないと以前どこかで聞いたことがあるが、しかし僕らはその話に関しては、なかなか共感を持ちづらい。なにせ僕らはその稀なケースの人間だし、更には僕らが破局する気配など微塵も無いのだから。つまりはラブラブなのである。バカップル万歳。
僕が部屋に帰ってくると、葉月は少し前に帰っていたらしく、晩御飯の支度をしていた。僕は荷物を軽く片付けて、お風呂を洗い、お皿なんかの準備をする。すると葉月は「ありがとう」なんて言いながら用意したお皿に料理を盛り付けていく。そして二人で食卓を囲み、晩御飯を食べながら、今日あった出来事とか、他愛もない話をしたりする。こんな風に二人で過ごす時間は、僕らにとっては多分、これ以上ない至福のひと時だ。
そういえば、神崎とも時折遭遇する。正直言えば会いたくないのだが、そうもいかないらしい。だから諦めてふらふらと仲良くすることにしておいた。向こうも同じように考えているのだろう。エンカウントした時には、大抵他愛も無い無駄話をする。不思議なものだ。あれだけ傷つけ合ったのに、今では、互いにそんな素振りは見せない。そこら辺、こちらもあちらも、都合がいいなと感じる。
それと、前に一回「あんたは今、幸せなの?」と神崎に聞かれたことがあった。だから僕は「それはもう、毎日が幸せすぎて仕方がない。家に帰ると愛する恋人がいる。素晴らしいだろ?」と惚気てやった。その時の呆れ顔は多分忘れることはないだろう。そのくらい完璧に呆れられてしまったのだった。でも、人生は幸せになった者勝ちなのだ。
晩御飯を食べ終え、食器やらを片付け、それぞれがお風呂に入る。寝巻きに着替えて、軽くテレビなんか見たりして、それから布団を敷き、二人で眠る。そして次の朝に目覚め、また二人で朝食の用意をして、大学へ行って、またどちらかが先に帰ってきて、その後にまたどちらかが帰ってくる。時折、前もって待ち合わせをして、デートなんかに出かける。そうやって日々を過ごしていく。葉月とのこの生活を再確認するたびに、この生活はずっと続いていくんだろうなと、ずっと続いていけばいいなと、そう呑気にも思う。
休日の朝。いつもと同じ調子で目覚める。時計を見ると朝の八時半だった。「休日は、朝八時以降にどちらかが起きたら、もう片方も起こす」という約束をしているので、僕は隣で眠っている葉月を優しく起こす。
「おはよう」
「ん、おはよう」
葉月は欠伸をしながら体を伸ばす。僕はそれをずっと見ている。
「……どうしたのよ」
僕の視線に気づいた葉月が優しくそう尋ねてきた。
「いいや、何も。ただ何となく」
僕はそう答える。葉月は「相変わらずね」と言いたげにふっと笑うので。僕は少し照れながら布団を片付け始める。
今日はそうじゃなかったけど、時折、彼女は夜中に寝ぼけて僕に抱きつくことがある。それはそれは大層可愛いのだが、そうして目覚めた朝には、決まって彼女は赤面し、忘れるように強要してくる。だからこれについては、誰にも口外しないようにしている。僕と葉月だけの、二人だけの内緒事だ。
《『for hazuki』 了》
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