プロ雀士スーパースター列伝 清水香織編
【ケンカでも同じじゃん?】
清水香織の麻雀観は人と違うなと驚かされたのは「天空麻雀」で和泉由希子を逆転して優勝した後の話だった。
決勝戦はオーラスの親が清水で、トップ目の和泉をじりじりと追い上げていた。
連荘の最中、普通ならリーチを掛けそうな手を清水はヤミテンにした。
本来、清水はリーチが大好きで、あまりヤミテンをしないタイプである。リーチしてツモって満貫、ハネ満、というタイプの清水が、なぜかヤミテンで5,800点だか7,700点だかを大人しくアガったのであった。
もしかしたら、清水にも決勝戦のプレッシャーがあったのか? いや、彼女に限ってそんなことはなさそうだけど。
収録をすべて終え、スタジオから出てきた清水に聞いてみた。
あれって、なんでヤミテンにしたの?
「ああ、あれはね、逃げ道を作るため」
逃げ道?
「リーチしてアガっちゃうと、次の局から和泉さんも死に物狂いで来るじゃん。でもヤミテンなら、まだかなり差があるから慎重さが残るわけ」
つまり、追い上げすぎて「窮鼠猫を噛む」状態にせずに、逆に相手に点数的な余裕を与えて、がむしゃらに攻めて来ないように仕向けたってこと?
「そうそう。ケンカでもそうじゃん? ごめんなさいって謝ったら許してもらえる状況作ってあげないと、開き直っちゃうからさ。テメーコノヤローって、何か振りかざしてもさ、敢えて逃げ道は作ってやるわけ」
何か振りかざすって、何を?
「まーそりゃそん時次第で、色々あんじゃん? 棒とかバットとか、まあ。でも、それをガチで追い詰めて殴ろうとしちゃうと、相手も必死だから反撃してくんじゃん? そしたらガチで殴っちゃうことになって、それはそれでヤベーわけよ。それはケンカとしてダメなのよ。あ、言っとくけど、たとえ話だかんね」
話がだいぶ違う方向に行ったけど、要するに、和泉に「放銃さえしなければ」という点数的な「猶予」を与えることで、逆転優勝の可能性を高めようという。そういう発想ってことね?
「そうそう。そういうこと」
なるほど。こういう発想があるから清水は様々なタイトル戦で優勝できたのであろう。
彼女は私と同期入会で年齢も同じだ。
プロになる前からの友人で、でも、麻雀は私の方がうまいと思っていた。清水は手順なども雑で、押し引きの判断も「適当」のように見えた。
でも、清水がいつも勝って私は負ける。
それはプロになってからも同じだった。
【プロテスト】
今から約30年前、清水は高田馬場にあった「ポリエステル100%」という変な名前の雀荘で働いていた。
今は雀荘に女性従業員がいない方が珍しいが、当時は逆だった。若い女の子が働いているというだけでインパクトがあり「女子が働いているなら怖くなさそう」という何となくのイメージで、雀荘初体験の男子学生たちも、あまりビビらずに行くことができた。
私も20歳か21歳の時、友達に誘われて「ポリエステル100%」に行ったクチで、行ってみたら居心地が良くて毎日のように通っていた。たぶん、年間でゲーム代を100万円ぐらい払っていたと思う。
家庭教師のアルバイトで毎月10万円ぐらい稼いでいたが、ぜんぜん金は残らなかった。
働いていた女子の中には、渡辺洋香プロ、田中智紗都プロ、初音舞プロなど、清水以外にも後にプロ雀士として活躍する人たちがいた。小林剛プロも夜番で働いていた。
当時の清水は大学生だったが、常にヒョウとかピューマとかクーガーみたいな、ネコ科の動物の模様の服を着ていた。いつも化粧をバッチリして、髪型も巻いたりしてキメていた。
麻雀のスタイルも今と変わらず、簡単には退かなかった。
もちろん、手によっては守りに入るのだけど、オリていても眼光は鋭く「何でアタシがオリなきゃなんねんだ!」という顔で卓上をにらみつけ、いつでも戦闘態勢に戻れるよう、ファイティングポーズだけは崩さなかった。
私が親でリーチを掛けても、清水はブンブンと突っ張ってくる。無スジを1つ、2つ、3つと押してくる。
私は当時「こいつどこから押し返してきてんねん。むちゃくちゃやがな」と思っていたが、その内に彼女が追っかけリーチを掛けてくる。
私が一発でつかんだ牌で「ロン」。開けたら待ちはカンチャンだった。
リャンメンでリーチしていた私は理不尽さを呪ったが、今思えば「リャンメンなら勝てる」という浅はかさが、私の麻雀の成長を阻害していたのだろう。
清水は平然と点棒を受け取り、次の局も「絶対にアタシがアガるぞ」という気合に満ち満ちて配牌を取っていた。
私にとっては、あまり近寄りたくはないタイプだったのだが、私の麻雀仲間の彼女だった。だから私も清水と一緒に飯を食ったり、麻雀を打ったりするようになった。
その内、清水とその他、つるんでいた数人で日本プロ麻雀連盟のテストを受けることになった。私は蚊帳の外のつもりだったが、なぜか数の内に入れられていて、テストを受けることになった。
清水の彼氏がすでに連盟のプロだったこともあり、テストのコーチを受けたりもした。
清水も私も「研修付き」で合格した。半年間の研修を経なければならず、プロデビューは翌年の4月だった。
研修を担当したのは、安藤満プロと藤原隆弘プロだった。2人は時々、前の晩の酒がわずかに残っていて酒臭いこともあったが、私も清水も、研修合格の方がむしろラッキーだと思った。2人に麻雀を教えてもらえる機会など、なかなかないからである。
清水の麻雀は粗削りで雑な部分もあったが、連盟の先輩たちからは評価された。
私は「自分の方がうまいのに」とか思っていたが、それは幼稚な考えであった。
丁寧に手順通り打てるやつなんて、プロの世界にはごまんといる。ていうか、できて当たり前だ。
プロ雀士というものは、そこから自分にしか打てない一打をひねり出して勝負所に勝利し、観てくれる人をうならせてナンボなのである。
清水は、最初からそういう素養があったと思う。
だから女流モンド杯でも優勝できたし、女流桜花やプロクイーンなどのタイトルも獲った。そして初の女性「王位」にもなれたのだ。
【ビクトリー麻雀創刊】
私たちが連盟に入った2年後、ナイタイ出版から「ビクトリー麻雀」という雑誌が創刊された。
麻雀雑誌は多い時で毎月13誌が刊行されていたが、私たちが入った頃には「近代麻雀」3誌、「月刊プロ麻雀」「雀王」など数誌を残して廃刊になっていた。「ビクトリー麻雀」は久々の創刊だったのだ。
漫画誌だったが、記事も多かった。執筆陣は、灘麻太郎プロ、荒正義プロ、森山茂和プロ、前原雄大プロというメンバーだった。
編集長の渡辺参郎さんと先輩プロたちの考えで、若手を多数登用しようという話になっていた。
私と清水、そして同じく同期の藤崎智プロも原稿を書かせてもらっていた。
ある時、編集長が「オイ黒木、清水香織は天才だぞ」と言ってきた。
ああ、文章、上手ですよね。意外な才能というか。
「いやいや、文章もいいんだが、それよりも、これを見ろよ」と言って、広告の裏に書かれた原稿を見せてきた。
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