プロ麻雀界近代史 初の世界大会は九段下で
【寧波に行けなかった雀士たち】
2002年の世界麻雀選手権大会は10月に中国の寧波(ニンポー)という都市で行われる予定だった。寧波は陳魚門という人の出身地で、この陳さんが麻雀を発明したのだという。
2001年から日本国内で予選が行われた。
代表選手になったら寧波という麻雀発祥の地に行くことができる。
選手たちはそれを夢見て練習し、試合に臨んだ。新聞にも大きな広告が掲載された。ルールは中国体育局が制定した国際公式ルールだった。
いくつかの大会が終わり、出場選手が決まっていった。海外でも同様に予選が行われ、リストの名前が増えていった。
だが、開催予定日の数カ月前に大会ができなくなったという連絡が中国から入った。
連絡を受けた野口恭一郎竹書房会長(当時)は困った。「できなくなった」と一方的に言われても、国内のマスコミや選手たちに確定事項として告知し、予選会までやらせているのである。日本の窓口となっている以上、それなりの責任はある。かといって、中国に押しかけていって、大会をやらせろと言っても仕方がない。
私の記憶では、大会開催予定の2カ月前ぐらいだったと思う。竹書房9階の会長室で、野口会長と名木宏之さんが話し合っている場に私もいた。
名木さんは会長の古くからの友人で編集者であり作家であり、晩年は雀荘経営もやっていた。会長のことを「オヤジ」と呼んでおり、ブレインとして常に側にいた。
その人が会長の背中をグイグイ押しているのを私は見ていた。
「オヤジ、やめるわけにはいきませんよ。大出版社竹書房の会長ですから、ここは俺が引き受けたと言って日本で開催するべきです。世界中の麻雀ファンが楽しみにしてるんですよ。マスコミにだって、すでに言ってしまっています。オヤジ、決断してください」
会長は「そう言ったってねぇ、君ぃ…」と、とにかく困っていた。
ここから先は
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?