流れの正体 なぜ流れありきなのか
【文士たちのせい?】
麻雀はパズルゲーム的な要素を持っている。しかし、なぜか麻雀業界に携わる者たちはパズル的部分に注目せず、精神論や流れ論について語ってきた。
それがデジタル論者たちをイラっとさせているのだろう。ふんわりしていて輪郭がハッキリしないものより、数字とか統計といったクッキリしたもんで語れよ! とイライラしている。
これはたぶん、文系人間たちが麻雀の世界を造ってきたからだと私は考える。
日本麻雀連盟の初代総帥は、直木賞や芥川賞を創設し文藝春秋社を作った菊池寛氏である。そして菊池氏と麻雀をして遊んでいた友達も文壇の方々であった。
ただし、この時代の麻雀ルールは今と全然違っていた。いわゆるアール・シー・アールで、フリテンもリーチもドラも三色同順も一気通貫もなかった。役がなくてもアガれ、大切なのは符。チーはヘボくてポンは偉い。1ハンはもっと偉い。役牌をポンするだけで符が倍になるのだ。
そう、アール・シー・アールの方が現行の日本麻雀よりもパズルゲームの要素が強かったのだ。フリテンがなく、放銃でもツモアガリと同じように点数は全員で払うから、あまり「怖い」という気持ちにならない。
こんなゲームをもし理系人間たちがやっていたら、まずは「牌効率」に注目し、その分野を研究し始めるだろう。
ところが菊池氏たちは違った。
「公算を基礎とし、もっともプロパビリティの多い道を選んで定牌に達し得る人は、名人上手と云へよう。
しかしさうした公算に九分まで準拠し、しかも最後の一分に於て運気を洞算し、公算を無視し、大役を成就するところは、麻雀道の玄妙が存在しているのかも知れない。
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