プロ麻雀界近代史 安藤満プロと来賀友志さんの牌理塾
【流されて】
私は中学生の頃、伯父の会計事務所を継ぐようにと言われて、自分はそうなるものだと思って生きてきた。
税理士になるために文系の学部を選んだが、麻雀のやり過ぎで、4年で卒業する見込みがなくなった。
これ以上は金の無駄だと思い、母に電話をかけた。
「税理士試験のために必要な単位だけはとったけど、卒業するにはあと2年ぐらいかかりそうやし、もう辞めて神戸に帰るわ」
私がそう言うと、母は「もったいないからもうちょっとやり」と言う。
「いや、もったいないから辞めるんやんか」
私は反論するが、母が辞めるなというので、あと2年ほど東京にいることにした。
その数日後、嶋尾という男が日本プロ麻雀連盟の入会テスト受験を勧めてきた。嶋尾は雀荘で知り合った1つ年下の友人で、富山の医者の息子だったが勘当されて住むところがなくなり、私の部屋に居候していた。
受験を勧めてきたというのは適切ではない。友人数名で受験することが決まっており、その中には私も入っているというのだ。
私は嫌だと言ったが、強引に勧誘されて受けることになってしまった。
あと2年は大学生だし、まあいいか。そんな軽い気持ちだった。
友人たちとプロテストの申込をするため、当時東中野にあった連盟の道場に行った。藤原隆弘プロがいて、受け付けてくれた。本来は郵送で送るべきものなのだが、金はなく遊ぶヒマだけはあるくせに、期日のギリギリまで何もできない私たちは、直接持って行くしかなかったのであった。受験料の15,000円も誰かに借りたものだったと記憶している。
そんな「成り行き」で私はプロ連盟に入ることになった。野望や目標があったわけではなく、草野球チームに入るようなノリでしかなかった。
その時の友人たちの内2人は辞めてしまった。残っているのは私と清水香織の2人だけである。
プロテスト受験が終わって、研修生になった。半年間の講習を受ければ、春からプロとして試合に出られるようになる。
研修はそれなりに楽しかった。安藤満プロと、その弟分みたいな存在だった藤原さんが講師で、麻雀を教えてくれた。
当時の私の麻雀は「守り」を重視していたので、藤原さんの教えは本当に勉強になった。
安藤さんは数多くのタイトルを獲得した大スター選手だった。「近代麻雀」でもおなじみだったし、何といっても、自分の麻雀に「亜空間殺法」という必殺技みたいな名称をつけていたのが大きかった。
「亜空間殺法」とは、ツキの流れを変えるために「アガリに向かわない鳴き」をあえてやるという戦法だった。
素人が真似をするには難しすぎる麻雀理論だったが「とりあえず鳴いてみる」みたいなことは簡単に真似ができたから、雀荘でも流行っていた。
ただの衝動ポンをした後に、照れ隠しのように「亜空間殺法!」と言ってみる人がいれば「ただの後ヅケじゃないの?」と返す人もいる。そういう風に、イジられること自体が、当時の麻雀プロとしてはすごいことだったと思う。
研修生は全員、安藤さんの著書「亜空間でぽん」を買わされた。
麻雀の勉強になった部分もあったが、西原理恵子さんが漫画で安藤さんをイジっているのが面白かった。
私は昔から、麻雀プロの人たちの、こういう「真面目にやってんだかふざけてるんだか分からない」ところが好きだった。
プロレスも好きだったが、同じような「うさん臭さ」と「凄み」が麻雀プロにもあった。プロレスが体育会系の「うさん臭さ」だとしたら、麻雀プロの世界は文化系の「うさん臭さ」だと思った。
少しずつ、プロの世界に興味が出てきた。
2月ごろ、母から電話があった。
「あんた、やっぱり帰っておいで」
「え? 辞める言うたのに、自分が辞めるな言うから、麻雀のプロになってしもたやん」
「何それ? や○ざ屋さんの手先になったんか。おっちゃんと一緒やな。何でもええけど、学校やめて帰っておいで」
「誰が手先やねん。しかしなんでや、急に」
「私が寂しいから」
「何やそのしょうもない理由は」
ちなみに母が言った「おっちゃんと」は会計事務所を経営していた母の兄のことであり、決して暴力団の手先ではない。当たり前のことだが、おことわりしておく。
結局は母の押しに負けて大学を辞め、神戸に帰ることになった。
そのタイミングでプロ連盟入会をキャンセルすることも考えたが、面白くなってきてしまっていたから、神戸から通うことにした。
毎月、新幹線に乗って東京へ行き、同期の友人の家に泊めてもらった。
神戸の元町にあった「グッドラック」という雀荘に打ちに行った。101競技連盟の名翔位・僧根幸男さんのお店だった。
店長の中村という男に「メンバーやれへん?」と誘われて、バイトをすることになった。
私は案外、意思が弱く、人の言うことに流されながら生きてきた。
【なぜか入れてもらえた】
1997年のいつ頃だったか覚えていないが「牌理塾」という麻雀研究会ができた。
安藤プロと劇画原作者の来賀友志さんが作った麻雀研究会だった。会場は神楽坂の「ばかんす」という雀荘だった。
来賀さんは安藤さんと仲が良い作家さんだったが、麻雀はめちゃくちゃ強かった。
今の若い人にとっては、後に連載が始まる「天牌」シリーズ(作画:嶺岸信明)の原作者というイメージが強いかもしれない。だが、この当時、すでに嶺岸さんとのコンビで「あぶれもん」などの名作を発表しており、私にとっては憧れの人であった。
発足したばかりの牌理塾には、同じく発足したばかりの新団体「麻将連合」に所属していた忍田幸夫プロ、滝石潤プロ、「最高位戦」の金子正輝プロ、「プロ連盟」からは前原雄大プロ、土田浩翔プロ、阿部孝則プロ、藤原隆弘プロらが参加していた。
今思うとこんなすごいメンバーの中に、なぜ私が入れてもらえたのか、全然わからない。この他に数名の若手プロがいて、その内の1人が私も誘ってくれて、参加することを許してもらえていたのだった。
【ツモ牌相理論】
牌理塾では「ツモ牌相理論」を学ぶことを主眼としていた。
最後までその理論のことはよく分からなかったが、ものすごく大雑把に言うと、ツモの傾向によって、将来ツモってくる牌を予想することができるのでは? というものだった。
これを提唱したのは101競技連盟の渡辺和弘さんである。僧根さんの師匠に当たる人で、僧根さん自身もツモ牌相理論の使い手だった。私は「グッドラック」でのつながりもあり、僧根さんにも可愛がってもらったが「ツモ牌相理論」の説明だけは何回聞いても理解できなかった。梶本琢程プロは僧根さんの弟子で「グッドラック」で働いていた。梶本さんは渡辺さんの孫弟子に当たるので、彼にも「ツモ牌相理論」について何度も聞いたのだが、やっぱりワケがわからなかった。
牌理塾でやっていたことが、渡辺さんの「ツモ牌相理論」に基づいたものなのかどうか、私には分からない。だが、よく覚えているのは、初期の牌理塾で行われていた「特殊な配牌の取り方と特殊な牌譜の採り方」だった。
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