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バビィのお別れ会がありました


【日本青年館にこだわった理由】

 10月28日18時から「日本青年館ホテル」で馬場裕一プロを偲ぶ会「バビィのお別れ会」を開催した。
 私が代表取締役をつとめる株式会社バビロンが主催で、バビロンは馬場さんが作った会社である。
 馬場さんは社長であることが嫌で、会社を作って3年ぐらいで「黒木が社長やって」と、私に責任を押し付けた。
 当時の私は「ええええ、そんなに軽く社長交代するもんなの?」と思ったが、バビロンの社長など別に大した責任もないので、まあ良いかと思って引き受けた。
 遺族のご意向により、お葬式はオープンにされなかったので、多くの人から「お別れ会的なものをやってほしい」と言われた。
 会場は「東京六大学麻雀リーグ戦」「夕刊フジ杯争奪 麻雀女王決定戦(現・麻雀女流リーグ)」「麻雀最強戦」などの会場として使わせていただいた、馬場さんにとっても思い出の場所である「日本青年館」に決めた。
 行ってみると日本青年館は神宮外苑の中ではあるが、引っ越ししていて、神宮球場の隣になっていた。
 私たちが使わせてもらった建物はもうなかった。
 できるだけ早く開催した方が良いと言われたが、なかなか日程が合わなかった。
 なんとか10月28日が空いていて、平日ではあるが、馬場さんの月命日でもあるので、この日に決めた。
 このあたりのスケジュールの折衝は、渡邉浩史郎プロがやってくれた。
 浩史郎はまだ若くてプロ歴も浅く、馬場さんと初めて会ったのは闘病生活に入る少し前ぐらいだ。だが、彼は馬場さんのことを尊敬し、慕っていた。
 私と一緒に病院に見舞いに行った時は、馬場さんの具合が悪く、寝ていて起きそうにもなかったのだが、浩史郎は泣きながら話しかけていた。
 もう食べれないよと言っても、買ってきたお土産を置いて帰った。
 だから彼は喜んで手伝ってくれた。
 お金のことは、浩史郎とケネス徳田プロに任せた。
 私は参加受付を担当し、あとは当日の流れを考えて台本のようなものを作った。台本は前日ギリギリに作って、司会の小林未沙さんには迷惑をかけてしまった。

 小林さんは馬場さんと同じ立教大学を卒業している。彼女がまだ最高位戦のプロになったばかりの頃、一緒に飯田橋の和食屋でお食事をした。
 当時から麻雀プロっぽくない人だった。
 常識があって、頭が良い。やることや言うことが、いちいち適切だった。
 そういうところも、馬場さんは気に入っていた。
 馬場さん自身はめちゃくちゃな人だったが、若手プロ雀士が「お前それやっちゃったら誰からも相手されなくなるぞ」ということをやると激怒した。自分が過去にやってしまった失敗も、いったんは棚に上げて怒った。私もけっこう怒られたが、本当に良い経験になったと思う。
 馬場さんが怒ったのは「その若手プロのため」もあったが「お前の言動ひとつでプロ麻雀界全体に迷惑がかかるんだよ」という理屈だった。
 ただでさえ脆弱なプロ麻雀界で「応援してくれる人たちに呆れられるような言動はするな」と言いたかったのだと思う。
 小林さんに、そういう危険性は一切なく、逆に優秀すぎて恐ろしいぐらいだった。
 彼女がいかに優秀かは、別の記事に書いてあるので、良かったら読んでいただきたい。

 

【最初のご挨拶の大失態】

 最初に私が主催者を代表してご挨拶をさせてもらったが、絶対に言おうと思っていたことを忘れた。最悪だ。
 この会を開催することができたのは、協賛社のおかげである。
 馬場さんが高校生の頃からお世話になってきた「竹書房」は、今もずっと継続してお仕事をくださっている。
 全自動麻雀卓販売代理店の「アルバン」は、馬場さんがバビロンを作ってからしばらく、経済的な援助をしてくださっていた。
 「マーチャオ」は「夕刊フジ杯」が今よりも小規模だった頃、メインのスポンサーになってくださった。
 フジテレビ「THE われめ DE ポン!」の制作を初期からずっと担当されているチームの皆さんは、最初は観戦記者だった馬場さんや私たちを仲間のように扱ってくださった。馬場さんの出演コーナーを作ってくださり、闘病生活に入って、出られなくなって、代わりにパジャマとりやさん(部谷幸則プロ)が出ることになってからも、コーナー名は残してくれた。
 麻雀店の検索サイト「雀サクッ」は、いつの間にか馬場さんが人脈を作り、今も色々な面でバビロンは助けてもらっている。関西方面で何かあったら、まずは「雀サクッ」さんに頼る。
 北海道で何かある時に頼るのは「ハートランド」だ。代表の喜多清貴プロと馬場さんは、若い頃は最高位戦のプロ同士だったが、今や喜多さんは日本プロ麻雀連盟の北海道本部長である。2人の立場は大きく違っているが、友情はずっと変わらなかった。
 今、むしろバビロン的な活動をやっているのが「エース」で、イベント運営や動画制作などをやっており、晩年の馬場さんもお仕事をいただいていた。
 「麻雀最強戦」の制作を担当している「JDC」にも、馬場さんは最後までお世話になった。
 以上の各社から、この会への協賛をしていただいたお礼を述べようと思っていたのに、全部忘れてしまっていた。
 アホすぎて話にならない。
 この記事をもってお詫びとお礼をさせていただきたい。
 本当にありがとうございました。
 そして、大変失礼いたしました。
 もちろん、敬称略である。

【メンチンゲーム】

 次に献杯の音頭を、元「近代麻雀オリジナル」編集長の尾沢祐司さんにお願いした。
 尾沢さんは「スーパーヅガン」に出てくる「ムカフーン打法」の使い手「尾沢竹書坊」のモデルになった人である。
 若い頃の馬場さんを麻雀ライターとして起用した、いわば育ての親のような存在だ。
 その後しばらくはお食事と歓談の時間としたが、途中で「メンチンゲーム」みたいなことをやった。
 お土産の品みたいなものを色々と考えたのだが、麻雀牌のチロルチョコにした。
 それを13個ずつ、ピンズのメンチンテンパイになるようにして箱に入れて、受付時にお渡しした。


 180を超える牌姿を作ってくれたのは浩史郎である。箱も彼が組み立ててくれた。
 ゲームのコーナーでは、徳田が前で牌を引き、それがアガリになっている人が勝ち残っていくという方式にした。
 最後まで残った3名には賞品として「バビィお別れ会Tシャツ」をお渡しする。


 最初に8ピンが出て、次に6ピンが出た。これでかなり脱落者が出た。結局、5678と偏った目が出て、この4種類の待ちになった3名にTシャツが贈られた。
 森山茂和プロ連盟会長も手を挙げながら走って前に出てきたので「ええ、会長に当たったんかい!」と思ったが、会長はちょっとルールを勘違いしていて、残念ながらハズレだった。
 「なんだよー」と、めっちゃガッカリされていた。
 漫画家の花摘香里さんが「えーそれ欲しい。売ってくれよー、買うからさー、いくら?」と、会が終わってから言ってくれたのだが、それを聞いた徳田が「じゃあこれあげる」と言って、来ていたTシャツを脱ごうとした。
 花摘さんは「やべえ」と察して逃げようとしたのだが、徳田はお腹の部分をめくって、花摘さんの頭から被せようとした。
 花摘さんは何とかかわしたのだが、徳田のTシャツの裾の部分が、頭に当たっていた。
 「やめろー!」
 私もずっと花ちゃんと呼んでいるが、彼女ももう還暦をすぎていて、徳田はアラフィフだ。
 恩師のお別れ会が終わったばかりの会場内で、小学生みたいなことができる徳田がうらやましかった。

【長村の弔辞】

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