ケネス徳田伝説② ケネスになった日(文・黒木真生)
【2002世界選手権が突如中止に】
日本式リーチ麻雀の世界選手権のことを「World Riichi Championship」通称「WRC」といい、2014年に第1回大会がフランス・パリで行われ、山井弘プロが優勝した。
これよりもかなり前、2002年にも第1回の世界麻雀選手権大会が行われているが、この時のルールは中華人民共和国体育局が制定した国際公式ルールだった。
本当は麻雀発祥の地と言われている寧波(ニンポー)という中国の都市でやる予定だったのだが、大会の直前に中国側の担当者が「かかわっていた政府のエライ人が失脚したので大会は中止です」と一方的に告げてきたのであった。
えー!
竹書房の創業者で当時は会長だった野口恭一郎氏は「中止か…」と頭を抱えていた。野口会長は国際公式ルールの制定にも力を貸し、世界選手権開催に対しても協力していたし、資金面でもポケットマネーで数百万円を中国側に提供していたという。
野口会長の側近として世界選手権の事務局長的な役割をしていた名木宏之さんが「オヤジ、中止ってわけにはいきませんよ。ここはオヤジが踏ん張って、日本開催としましょう」と、野口会長を説得し始めた。
私はその様子をそばで見ていたが、まさか本当に野口会長が自腹を切って日本開催を実現するとは思っていなかった。
時間もなかったし、お金もたぶん、1千万円や2千万円じゃきかなかったと思う。
急遽、九段下のホテルグランドパレスを抑え、2002世界選手権を日本で開催することになったのであった。
大会の前夜祭で、名木さんから相談があった。私はパーティ会場から連れ出され、名木さんがヒソヒソと話してきた。
アメリカチームの1人が急に来れなくなって、1人補充しなければならない。普通に黒子的に足してもいいが、それじゃつまらない。ちょうど徳田君が日本人離れしたフェイスをしているから、彼を日系人みたいな感じにしてアメリカチームに入れよう。それぐらいのシャレはあってもいいだろう。
そんな話だった。
そもそもが中国開催から急転直下九段下でやることになった大会である。まあいいんじゃないでしょうかと名木さんに告げて、徳田を探してそのことを打診したら、ノリノリで「じゃあケネス徳田っていう名前で!」と、すぐに名前も決めて、アメリカチームの選手として登録されることを快諾した。
ちょうどその頃、かわぐちかいじ先生の漫画「イーグル」を徳田が読んでいて、ケネス山岡という人物からとったのであった。
そうと決まったら、徳田はアメリカチームの輪の中に飛び込んでいき、いきなり「イエーイ!」と言ってハイタッチを始めた。
日本在住の翻訳家ライアン・モリスだけは徳田のことを知っていたので笑っていたが、他の選手は「誰こいつ?」という感じで戸惑っていた。
パーティ会場内で徳田のテンションが一番高かった。
この日以来、徳田はずっと「ケネス徳田」を名乗っているが、ライアンからは「ケネスはだいたいイギリス系やねんけど、まあええわ」と言われていた。
ラスベガスの世界選手権の前夜際で。プレスリーのモノマネ芸人さんの前でモノマネしアメリカ人に笑われた。
芸人さんに悪いので黒木が連行した。
【インド人から購入した車】
徳田はオンボロの軽自動車に乗っていた。オートマチックじゃなくマニュアルだった。
いたるところから配線みたいのが出ていて、不思議な車だった。
ライアンが「この車、徳田が自分で作ったん?」と冗談で言ったら、徳田は「いや、ヤフオクで買った」と言っていた。
えっ、ヤフオクで車買ったの?
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