片チン、盟友バビィとの45年間を語る
「近代麻雀」に欠かせない存在だった馬場裕一プロが7月28日に亡くなった。プロ雀士であり麻雀ライターであり麻雀評論家で解説者でもあった。が、私たちの心の中にもっとも色濃く残っているのは、片山まさゆき氏の作品の中で描かれた「ババプロ」「バビィ」の姿だろう。
学生時代に始まった交友関係は、やがて漫画家とライターという「仕事の相棒」の関係に発展していった。
2人だけが知る秘話を交え、45年間の思い出を片山氏が語る。
聞き手・黒木真生
クチビルは誇張しすぎたかな
ーー:馬場さんと出会ったのは学生時代ですよね。
片山:僕は学生時代から競技麻雀に興味があって、当時渋谷にあった「いちばん」というお店に通ってたんだけど。そこのオーナーに声をかけられて「東京六大学麻雀リーグ」に参加することになった。
ーー:当時の、活字の専門誌だった「近代麻雀」誌上で企画されたもので、慶應義塾大学、東京大学、法政大学、明治大学、立教大学、早稲田大学の六大学。片山さんは明治の漫画研究会ですよね。
片山:うん。馬場君は立教で、どうもプロらしいと。しかもメンチンが得意技で強いらしいという噂を聞いていたんだよね。当時から竹書房に出入りして「近代麻雀」の仕事をしていたし。
ーー:「メンチンのババ」ですね。
片山:そうそう。そのキャッチはまだ生まれていなかったと思う。それは僕が漫画で描いた言葉かもしれないけど、あまり覚えてないんだよね。もしかしたら、馬場君が自己プロデュースのために「メンチンのババ」を流行らせようとしていたのかな(笑)。
ーー:学生時代からそういうことしてたんですかね。
片山:でも、実際に強かったし、麻雀の歴史とか雑学とか、知識もすごかったんで、それなりにリスペクトしていましたよ。
ーー:コンビ結成みたいになったのはその頃なんですか?
片山:もっと後だね。当時はお互いに、たくさんいる選手同士っていう認識だった。僕はその後、在学中に漫画家デビューするんだけど、その頃、馬場君が連絡をくれて「一緒に何かやろうよ」って言ってくれたのが最初かな。
ーー:1982年、講談社「ヤングマガジン」で「ぎゅわんぶらあ自己中心派」が始まり、翌年「近代麻雀オリジナル」で「スーパーヅガン」が連載開始。いずれも大ヒット作になりました。
片山:当時の僕は本当に真面目で、両親も真面目だったから。漫画家として原稿料が振り込まれた預金通帳を千葉の実家に持って帰って「こうやってちゃんと生活できるようになりましたので、大学をやめて漫画家としてやっていくことを認めてください」とか、結構ちゃんとしてたんだけど。馬場君と知り合ってから驚いた。ああ、人間って、こんなにいい加減に生きていてもいいんだなって。
ーー:目に浮かぶようです。
片山:僕の自宅兼仕事部屋によく来てたんだけど。アシスタントさんもいたから、机が3つぐらいあって。ふらっとやってきては「ここで原稿書かせてー」と言って空いている席に座るんだけどさ。漫画ばっかり読んでぜんぜん書き始めないんだよ。僕はその横でせっせと漫画書いているのに、馬場君は漫画読んでる。
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