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井出洋介語る14『われめでポン』に出られた理由

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タモリ倶楽部で寒中ダジャレ麻雀大会

 

今回は、地上波のテレビ番組で麻雀の普及活動をしていた時のことをお話したい。

麻雀は、どうしてもギャンブルのイメージが強かったせいか、なかなかテレビの番組で取り上げられる機会がなかった。

1990年代当時はまだインターネットがそれほど普及していなくて、携帯電話を持っている人も少なかった。現在のように動画配信もないしSNSもないので、一日の終わりにのんびりテレビを見るという人も多かった。当然、家族団らんの場としても、友人や同僚との共通の話題としても「テレビ」というものが担う役割がまだ大きかった時代だ。学校や職場で「昨夜のアレ見た?」「今夜はアレがあるから早く帰ろうか」という会話も普通に交わされていた。

そのテレビで麻雀を取り上げてもらうのは、麻雀の普及にとって大事なことだった。

 

僕が30代前半の頃だったと思う。最初に声がかかったのは「タモリ倶楽部」という深夜番組だった。当時、僕は麻雀ゲームの監修などもしていたので他の麻雀プロに比べて知名度が高かったからだと思う。

最初のイベントは「第1回タモリ杯争奪寒中ダジャレ麻雀大会」。メンツの中に蛭子能収さん、中村有志さんがいたのを覚えている。場所はビルの屋上。寒いところで対局して、負けたら服を脱がなければいけないという脱衣麻雀だった。

しかも、麻雀プロの僕にはハンデが与えられた。牌を1枚切るたびに何かダジャレを言わなくてはいけないのだ。

でも、それは実は僕にとってハンデでもなんでもなかった。

雀荘で働いているときにいわゆる「オヤジギャグ」みたいなものはたくさん聞いて知っていたし、自分でも結構言っていた。だから一萬を切る時に「イワンのばか」(注・ロシアの童話の題名)と言って、次に一萬を切る時に「イチマン去ってまたイチマン」と言ったりして結構うけた。そして1枚も服を脱ぐことはなかった。

 すると2回目は、初めから上半身裸でスタートするというルールになった。アガったら服を着たり、温かい食べ物を食べたりできる。發でアガったら焼き鳥のハツが出て来たり、白でアガったら湯豆腐が出てきたり、さすが人気バラエティ番組としての工夫は抜かりがなかった。この時も僕はすぐにアガって毛布をゲットした。

 すると3回目は、東京湾に浮かべた船の上で競泳パンツ1枚でスタートすることになった。それはさすがにちょっと恥ずかしかったけど、麻雀のことがテレビで取り上げられるならイヤだとは思わなかった。

 「タモリ倶楽部」で、僕は完全に色物だった。世間では麻雀イコールギャンブルという見方が当たり前で、「麻雀プロ」という肩書を見ても「何それ? 食えるの?」と思う人がほとんどだったと思う。でも僕は、テレビのブラウン管(今では液晶だけど)に麻雀が出るならそれでいいと思っていた。

 「東大を出ているのにプライドを捨てている」という意見もあったけど、僕には何の抵抗もなかった。そもそも僕には「東大卒」というプライドなんかないのだ。僕は麻雀という勝負の世界で生きているのだから、麻雀が世間の人に見てもらえて、僕がそこでの勝負で勝つことが何よりも大事だった。

 そのころテレビを見ていた人達が「麻雀」とはどういうものかほとんどわかっていなかったとしても、ただ、普段テレビに出ているタレントさんが「タモリ倶楽部」という番組で麻雀を打っているから、それを見てくれた。僕はそれでいいと思っていた。

  現場のディレクターはじめ制作側の人達は、番組をおもしろおかしくするためにいろいろな企画を出して工夫をしていたと思う。そして、僕が麻雀プロだからと言ってバカにするような雰囲気はまったくなかった。

 僕ももちろん、競泳パンツ1枚で麻雀を打つなんて、恥ずかしいに決まっている。でも、そこはあくまでも真剣に仕事をしている人たちの集まりだったので、イヤだと思わなかったのだと思う。

 この時のディレクターさんが、後の「THEわれめDEポン」につながっていく。

「DAISUKI」では白衣を着て麻雀の講義をした

 「タモリ倶楽部」の次に声がかかったのは、やはり人気のあった「DAISUKI!」だった。これは中山秀征さん、飯島直子さん、松本明子さんがMCをつとめる深夜のトーク番組だ。

ここでは僕は白衣を着て登場し、麻雀の講義をした後で麻雀について解説をした。これが好評だったようで、何回か呼ばれたと思う。

でもやはり麻雀は難しいので、「麻雀よりもわかりやすいドンジャラをやろう」という雰囲気になり、僕はドンジャラの試合の解説も数回したことがあった。

 深夜番組の視聴者の人たちは、タレントがドンジャラをしているのを見て、それを僕が解説するのを聞いて、おもしろかったのかどうかわからない。ただ、「DAISUKI!」があったから、「もう少しちゃんとした麻雀の番組がやりたい」という動きがあったのも確かなようだ。そこから「THE  われめDEポン」という番組につながっていったのだから。

 とにかくその頃、テレビに呼ばれるような麻雀プロは僕以外にいなかった。人気番組に出て麻雀を打ったり、麻雀の話をしたりすることでなんとか世間に麻雀を広めていこうという気持ちは常に持っていた。

 

「われめのルールは変えられない」という制約の中で

 フジテレビに「ものまね王座決定戦」という人気番組がある。当時、そのスタッフや出演者に麻雀が好きな人が多かったようだ。その仲間内でよく麻雀を打って盛り上がっていたのだが、それは当時のことなのであたりまえのように賭け麻雀だったと思う。

「DAISUKI!」の麻雀でそこそこ人気があるのをを見て、これなら自分たちがやってる麻雀をやっても、数字(視聴率)が取れるんじゃないか、と番組制作スタッフが考えたのだ。

 それが「THEわれめDEポン!」につながった。だから堺正章さんや清水アキラさんなど「ものまね王座決定戦」に関わっている人たちが、「THEわれめDEポン!」に多く参加することになった。

 企画段階で、僕には解説者としての仕事の打診があった。はじめは深夜の収録番組だった。

 僕は麻雀プロで、競技麻雀を主戦場としている。広く一般に麻雀を広めるためにいろいろ体を張ってやってきたが、ここでは二つ返事で引き受けるというわけにはいかなかった。

 「われめ」というルールに引っかかったのだ。

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