見出し画像

井出洋介語る11「僕のこだわりは、麻雀プロという存在が認められるとすれば、プロ競技者が麻雀でギャンブルをしてはならない、ということだった」

第1回  第2回  第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回


「麻雀競技解放戦線」の活動

1980年、第5期の最高位決定戦でいわゆる「八百長事件」があり、世間の若者の競技麻雀というものに対する関心が、少ししらけてきたような風潮があった。

八百長事件
決勝戦は田村が大幅にリードしていた。それを追うのは灘。まだだ二十代だった荒正義は大きく離された最下位だった。荒のアタリ牌である南が灘から出たが、荒はロンの声をかけなかった。灘からアガっても田村が楽になるだけで、田村から直撃するかツモらないと意味がないと判断したからである。
ところが、当時の編集長がこれを「八百長だ」と裁定した。タイトル戦は途中で中止となり、その時点で首位だった田村が第5期最高位となった。

竹書房刊「小島武夫~ミスター麻雀のすべて」より


その第5期、僕はまだ最高位戦リーグ選手になっていない。古川凱章さんは休場していたが、6期に古川さんが復帰した。そして僕はこの第6期からBリーグ選手になった。

当時、競技麻雀を目指す者たちにとってやはり古川さんが精神的な核になっていたと思う。

古川さんの一番弟子の青野滋さんと、僕と、高見沢治幸さんの3人で「麻雀競技解放戦線( MLF)」(Mahjong Liberation Front)を作って「麻雀をギャンブルから競技に解放しよう」という活動を始めたのはその頃だ。

専門誌だった「月刊近代麻雀」のなかにMLFのページも作ってくれた。高見沢さんはすでに第4期新人王(Bリーグ優勝)になってAリーグに入っていたが、この後、第6期新人王に青野さんが、第7期新人王に僕がなり、新人王トリオのAリーガーとして第14期(1983年)から麻雀名人戦(双葉社・週刊大衆)にも出場させていただくようになった。

点数のつけ方を古川さんが認めなかった

ここから先は

1,565字
この記事のみ ¥ 200
期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?