中川由佳梨の話【文・和泉由希子】
赤ん坊の頃の記憶は無い。
物心ついた時には、父はおらず、母と兄の三人暮らしだった。
殴られる事も、食事が無い事も、日常だった。
それがおかしいと気付いたのは、いつ頃だっただろうか。
母は母ではなく、「女」だった。
だからこそ、同種である「女」が嫌いだった。
二歳上の兄は可愛がられていたが、「女」であるゆかりは顔を見るのもイヤだと言われた。
娘なんていらなかったのにと言われた。
兄の分の食事は毎日あるのに、ゆかりの分だけが無かった。
同じ保育園に通っていた兄が小学校に上がると、ゆかり一人を保育園に連れてくのは面倒になったらしい。
家で留守番しとけと言われる事が増えた。
しかし保育園には給食があったが、家には食べ物が無い。
一人で出かけて外を歩いていると、近所のおばちゃんが声をかけてくれる事がよくあった。
『ゆかりちゃん、また一人なの?これ、食べーや。』
そう言ってパンをくれたりした。
有り難く頂いていたが、ある日母親にそれがバレた。
『近所から食いもん貰うなんて意地汚いガキやな!お前は歩くゴミ箱か!』
叱られて、殴られた。
その日以降、母が出かける時には、腕を後ろ手に縛られるようになった。
「縛られてると鍵が開けれないんですよ。
でもそこはね!ウチもね!子供ながらに学習するんで!
だんだん、棒に引っ掛けたりなんだかんだして、ほどけるようになってきてね!
そしたらますますキツく縛られるようになったけど、それもね!またアレコレ技を使って、ほどけるようになってくるんですよ。
まぁバレると殴られるんですけど(笑)」
ゆかりは笑って話していたが、全然笑える内容ではない。
その頃は、今のように、虐待や育児放棄に敏感な時代ではなかった。
近所のおばちゃん達ももどかしく思っていたが、気軽に通報できるような環境では無かったのだ。
『殴るってどんな風に殴られるの?』
と私は聞いた。
「ビンタと蹴りかな。あと、ふとん叩きで叩かれるとか、物使う事も多かったですね。
5歳くらいの時におもらししたら、本気で首絞められました。怖いし苦しいし。ああ、このまま死ぬんかなーと思いました。
あ!あと、カッターで切り付けられた時もありましたね。その時、洋服とかもほぼ買ってもらえなくて、数少ない一張羅だったんですよ。その服が切られて破れちゃって。あれはめちゃめちゃ腹たったなー。」
小学校に上がった頃、母親が男性を家に連れてきた。
『お母さん、赤ちゃんが出来たの。今日からこの人がお父さんになるから。』と言われた。
突然の宣言には困惑したが、妊娠出産の大仕事で母も忙しかったのだろう。
そこからしばらくは大人しくなり、殴られる事も減った。
知らない男を〝お父さん”と呼ぶ事には抵抗があったが、この人がいる事で落ち着くなら、それもいいかと思えた。
しかし安息の日々は長く続かなかった。
弟が生まれて半年くらい経った頃からまた暴力が始まり、今度は養父も加わるようになった。
母に殴られるのも怖かったが、大人の男に殴られるのはもっと怖かった。
喋れば『うるさい!』と言われ、大人しくすれば『気持ち悪い』と言われるので、どうすればいいか分からなかった。
「ウチ、二階建ての一軒家なんですけどね。お義父さんに、足を掴まれて逆さにされて、ベランダから宙吊りにされた事ありました。
『このまま落としたるわー!』って言われて、ほんまに怖くて、泣きながらごめんなさいごめんなさいって言い続けて。」
しかし結局、母はこの男とも長く続かず、3年ほどで離婚して出て行った。
ゆかりは高学年になった。
四年生のゆかりは学校から直帰するように命じられていた。
掃除、洗濯、洗い物、弟の保育園の迎えは、ゆかりの役目だった。
これらをおろそかにすると、殴られた上で『出て行け!』と言われ、家を追い出された。
ある日、家の前でうずくまっていると、近所のおばちゃんが来てくれた。
『こんな時間に子供が外にいたら危ないじゃない』と母に話してくれた。
バツが悪かったのか家には入れてくれたが、許されたのは玄関だけ。
その日から、玄関で布団も無く眠る事が日常になった。硬い床は冷たかった。
「一回、洋服を剥ぎ取られて、スッポンポンで家を出された事もありましたよ。その時はさすがにどこにも行けんくて、ほらアレ!青いデッカイ、ゴミ入れたりするポリバケツ、あるじゃないですか!あれがウチにあったんで、その中に入って朝まで過ごしました。」
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