勝見恒之(かつみ・つねゆき)~Mリーガーを育てた男【ドキュメントM】
高田馬場にある「アウトサイダー2」は、昼間はカレー屋さんで夜は会員制のバー。麻雀プロ達が通っていて時にはMリーガーも訪れるという。今回はお店にお邪魔して、そこのオーナーで「麻雀大学」という雀荘を経営していた勝見恒之さん(78歳)にお話を伺った。
雀士・滝沢和典が育った場所
麻雀の世界で仕事をしていると「伝説の雀荘」の名を耳にすることがある。「麻雀大学」はその一つだ。
滝沢和典プロ(日本プロ麻雀連盟・KONAMI麻雀格闘倶楽部)は、18歳の時から「麻雀大学」に通い詰め、そこには勝又健志プロ(プロ連盟・EX風林火山)もいた。
勝見さんは、当時を振り返る。
「俺は麻雀のことは何も教えられないんだけど、うちの店にいた子たちが今すごく活躍してくれてうれしいですね。こないだも伊藤優孝さん(プロ連盟)が『勝見さんのとこで育った子たちは皆麻雀が強いねえ』と言ってくれましたよ」
「アウトサイダー2」のテーブル席は、よく見ると麻雀卓の上に板を置いたものだ。
「休みの日には麻雀プロが来てここで麻雀してます。挑戦者がいたらいつでも受けて立ちますけど、俺に勝てる者はいないです。俺が一番麻雀は強いです」
そういう勝見さん自身は、順位戦一〇一(現在の日本麻雀101競技連盟)の選手として麻雀を打っていたことがある。
お話を聞きながら、勝見さんの強さの秘密と魅力にどれだけ迫れるだろうか。
15歳で家出して東京の鉄火場に飛び込む
勝見さんは北海道・小樽の出身。
「15歳の時に家出して東京に来ました。立川の鉄火場で10年くらい毎日バクチをして暮らしてましたね。麻雀は池袋あたりでやってて、その頃に10代の金子正輝(現・最高位戦日本プロ麻雀協会)と友達になりました。金子はジーパンはいて髪の毛は腰までありましたよ」
雀荘の年齢制限や、賭博に対する取締がそれほど厳しくなかった時代の話だ。
「結婚して子供ができたからちゃんと暮らそうと思って、小樽に帰って『峰』という雀荘を始めました。26歳の時です」
小樽の雀荘「峰」は成功し、やがて札幌に移転。
「そこにね、ある日、小樽商大の真面目そうな学生がやってきたんですよ。その子の麻雀を見て『この感性はすごいな』と思ってたら、その子が俺の麻雀を後ろで見たいって言って、一晩中見てたんです。
で、帰り際に『ここで麻雀を教えてください。自分が今までやっていた麻雀はままごとでした』って言うんです。聞けばすでに札幌で仲澤青龍さん(プロ連盟)というちゃんとした人について麻雀を勉強してるって言うんですけど、そっちをやめてここでやりたいって『峰』に通ってくるようになりました。土田興司君という学生です」
現在、Mリーグや最強戦の解説者として活躍している土田浩翔プロ(最高位戦)の若き日のエピソードである。
古川凱章(がいしょう)に憧れて上京フリー雀荘が大当たり
ところが、勝見さんの身辺の事情がここから大きく変わってくる。
「札幌にいるときに好きな女ができましてね。俺は奥さんがいるのに夢中になってしまったんですよ。で、奥さんに離婚されてしまいました」
その女性ともうまくいかず、勝見さんは心機一転、もう一度上京する決意をする。
「北海道で雑誌の『近代麻雀』をずっと読んでたんです。それで古川凱章(故人)という人の存在を知って、憧れてました。思い切って金子正輝に『東京に行くから古川さんに紹介してくれ!』と連絡して上京しました。38歳の時です」
まもなく高田馬場に「麻雀大学」をオープン。赤入りのピンの東風戦のフリー雀荘で、これが大いに当たった。
「当時のサラリーマンの給料が1万3000円くらいなのに、客がどんどん来るんですよ。ある時『これ、レートを半分にしたらもっと客が来るかなあ』と思って横にいた江畑君(故・来賀友志さん)に話してみたら『それ絶対当たりますよ!』って言われたから半分にしました。点五のフリーを初めてやったのは俺ですよ。そしたら大行列で、店を増やすしかなくなって、高田馬場で3軒の『麻雀大学』をやりました。銭勘定とか適当にやってたらマルサ(国税局査察部)が来ちゃって。雀荘にマルサが入るのは初めてだったんじゃないかと思います。とにかく忙しかったですね」
しかし勝見さん自身が夢中になったのは、古川氏が主宰する順位戦一〇一だった。
「店に赤牌を入れたのは営業のためです。赤を入れないと腕の差が出て強い人しか勝たないから、客が増えなくて商売にならないんですよ。でも俺が本当に好きな麻雀はそんな麻雀じゃないです」
101のシステムはトップが1ポイント、ラスが▲1ポイント。2着と3着はー(バー)というシンプルな評価で戦う。
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