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父親のDVから逃れ施設を転々。母親がウツ病の中、体育座りをしながら次の日が来るのを待っていた壮絶人生。【内田みこヒストリー・前編】

麻雀プロがどのような人生を送って麻雀と出会い、今日に至ったのかを語ってもらう。今回登場する内田みこプロは、あまりに壮絶な人生を送りながら、麻雀によって「世界がキラキラして見えた」と語る。彼女の波瀾万丈な道のりを、前後編に分けてお届けする。まずは前編から。(全2回の1回目/#2へ)
(初出youtube「麻雀遊戯王」https://www.youtube.com/watch?v=XbuC-YqEaEQ)

――内田さんは、前から最強戦とかいろいろなところで話題や注目を集められていましたけれども、今回はBSJapanextさんのオーディションでさらに脚光を浴びましたので、ここは皆さんも内田さんのヒストリーが気になっているんじゃないか、ということで、人生年表を書いていただきたいと思っております。
 
内田 私、麻雀プロの人にも過去のこととか言ったことなくて。ほとんどたぶん、誰にも話してこなかったなって思いましたね。

 まず、0歳ですね。1996年7月2日、東京都に生まれました。あんまりよくないことが多かったような人生でして、結構病んでましたね。赤が感情起伏のパーセント。生まれてからこんな感じ。これが今です。
 
――やった、超ハッピー。ただ、今のこの超ハッピーな状況が見えたからこそ、安心して聞けます。

内田 幼稚園くらいまでは順風満帆、普通の幼稚園に通っていて、楽しくやっていましたね。平和に、普通に。18くらいまで、幼稚園時代が一番楽しいと思っていました。
 
――高校時代とか楽しいはずなんだけど、何があったんでしょう?
 
内田 幼稚園のときは結構スポーツは万能で、中国雑技団にスカウトされました。

 体が柔らかかったのと、広場で雑技団の人がショーみたいなのをやってて、隣で体の柔らかさをアピールしてたら名刺をいただいてスカウトされて。たぶん、対抗してやってたんだと思います。でも、これは中国まで行かなきゃいけないので、やめました。日本にいたいので。
 
 ここからですね。小学校2年生くらいまでも楽しかったな。小学校2年生の時に事件が起こるんですけど、朝逃げします。父親がDVしてたので、それがきっかけで母親は耐えかねて、父親が仕事に行った隙に、私はランドセルとぬいぐるみを持って朝逃げします。

――お母さんと内田さんで。
 
内田 それから家に帰らずいろいろな施設を転々として。家なき子なので。ここら辺で家を見つけます。小3くらいかな、港区、港区女子デビューをしちゃいました。

 港区、場所はいいんですけど、住んでた家がテレビと布団しかなかったんですよね。ランドセルとぬいぐるみだけ持ってきたんで、部屋の中が何もないという状態で、家具とかは八百屋さんとかのダンボールをもらってきて机にしたり、棚にしたり。落ちてるものは拾って生きていました。

 逃げたときから母親が躁鬱気味で、感情の起伏が激しくて、ここら辺は学校に行ってないんですけど、もう家がね、ずっと暗いんですよ。お金もないので、毎日サッポロ一番の塩ラーメンを食べてました。たまに食べるとおいしいんですけど、それを毎日食べてたんで、しかもお皿とかないんで普通に鍋から食べてました。毎日食べてると吐きそうになるんですよ。

 そこで私は、いろんなものをちょっと食べてみました。まず、スティックシュガーをよく食べてました。甘いものが食べたくなって、喫茶店にあるスティックシュガーをいっぱい持ってきて、紙ごと食べていました。空腹を紛らわすために。あとはそこら辺の葉っぱとかも食べていました。

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