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別に麻雀プロになりたくてなったわけじゃ【増田悠理】

私くらい消極的な理由で麻雀プロになった人はあんまりいないんじゃないかなと思います。


小中高と所謂優等生ではあったと思います。

ただそれは勉強が好きだったわけではなくて周囲の期待に応えねばという責任感から来たものでした。また、家庭の金銭的な事情もあり、国立大学しか大学進学の選択肢がなかったので、苦手な科目を含む5教科7科目全て努力する必要がありました。

自分の実力と周囲の期待が乖離するほど、私のメンタルは知らないうちに消耗していたようで、高校3年生の夏、私は勉強に一切手がつかなくなってしまいました。

大学受験に向けた勉強だけではなく、学校の授業でさえも起きていられなくなってしまったほどです。
そんな様子なので大学受験は当然失敗、東日本大震災のニュースで更に心を消耗し、私は浪人1年生なのに1日の大半を布団の中で過ごしていました。たくさんの人が無慈悲に命を落としたのに私は布団の中で生きているというギャップに情けなく感じていました。

もちろん家族は心配してくれて、あの手この手で私を布団の外から出そうとしてくれました。

その中の1つが麻雀大会への参加でした。

最初に出たのが横浜雀友会の月例大会。
2ヶ月連続親子(双子の姉も含む)で参加して、まぁまぁ良い成績を残しました。所謂ビギナーズラックではありましたが、良い成績の嬉しさから、日本プロ麻雀協会のチャンピオンロード、麻将連合のM1カップと次から次へとワンデー大会に参加するようになりました。

今でも印象に残っているのはチャンピオンロードの5回戦目です。最初の4回戦で結構ポイントを積み重ねていたのもありましたが、対面に大崎初音プロがいて、私は大変緊張していました。
細かい牌姿は覚えてないのですが、メンタンピンドラの勝負手の一向聴で一手変わりイーペーコがつくような複合系の形でした。聴牌したと思ってリーチをかけたのですが、その後すぐに血の気が引きます。人生初めてのノーテンリーチをしていました。
後ろを振り返ると協会の五十嵐代表が私の麻雀を後ろで見ていて、一層シュンとなってしまいましたし、大変な場面で大変なことをしてしまったと消えたい気持ちになりました。

おそらく顔にめちゃめちゃ出ていたのでしょう、対面の大崎さんが鳴いてアガリ切ってくれたおかげでチョンボにはならないで済みました。

月に何回かコンスタントにある麻雀大会は私を布団の外から出すきっかけとなり、その後私は派遣社員としてフルタイムで働けるようになりました。

派遣時代の名札

フルタイムで働いたお金を元に麻雀大会に参加し続けて、浪人1年目の10月末に派遣契約満期を迎え11月から受験勉強を再開しました。

受験勉強は決して順調ではなかったのですが、息抜きとして麻雀大会には参加し続けていました。
ありがたいことに何人かの方からは麻雀プロにならないの?と言って頂いてたのですが、「麻雀で何かを成し遂げよう」という高尚な思いは皆無で、あくまで日常の中の刺激として続けていました。

そして4月、晴れて私は目標としていた千葉大学に合格し、念願の大学生になりました。

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