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最高で最強を目指す君へ【文/第19期最強位・張敏賢】
■出会い
月並だが、歳月の歩みが年々早く感じるようになってきた。
今年もあっと言う間にあと一月を切り、週末には年末の祭典である「麻雀最強戦FINAL」を迎えるが、その少し前、冬が始まる直前の頃には、春に始まった各プロ団体のリーグ戦も終わり王者が決まるのも、毎年恒例の習わしである。
そのうちの一つ、最高位戦日本プロ麻雀協会(近藤誠一プロ・村上淳プロ・朝倉康心プロなどが所属)の年間王者を決める「最高位決定戦」を勝利したのは、鈴木優プロ。 醍醐大最高位・園田賢プロ・新井啓文プロという、油の乗り切ったゴリゴリの強者達を相手に、A1リーグ1年目ながら「第46期最高位」の座を見事に射止めたが、決してフロックなどではない内容で、終始堂々とした戦いぶりだった。
彼との出会いは13年前になる。 いまや「審判の人w」と、未だに「w」まで付けられる扱いを受けている私だが、かつては「最高位」と「最強位」を同時期に保持したこともあった。
その最強位になった2008年の「第19期最強戦」、当時は「読者(アマチュア)代表」だった彼と決勝で対戦したことをきっかけに、付き合いの頻度は低い割には、不思議と縁の深い関係が続いている。
なので当然、彼の勝利に歓喜した。
そして、昨年からタイトルホルダー枠が無くなったことを忘れて、あの「最強戦の申し子」が「最高位」になってFINALに出場する!!
これ以上のドラマは無い!
と一人勝手に興奮し、感慨に耽っていたのだが、翌日に気付いて落胆した・・・。
彼と最強戦の長い歴史を考えると、システム変更のことなど吹き飛んでしまったのだが、このすれ違いが届きそうで届かない関係性を表している様で、
また一人勝手にその因果へ思いを馳せていると、最強戦実行委員長の金本さんから連絡がきた。
「鈴木優さん最高位とりましたね。第19期最強戦の決勝を思い出します。あのとき張さんが優勝してから麻雀界も大きく動きましたし、敗れた鈴木優さんもついに最高位になったかーと感慨深く思います。そこで、鈴木優さんへの祝福メッセージや思い出を書いてくれませんか?」
同じ様に感慨深くなっている人が、もう一人いた。
「最強戦の申し子」というこれ以上ないほど輝く異名と、応じて彼の存在は認知されているだろうが、そもそも何で申し子なのか?は、知られていない所もあるだろう。
加えて辛辣にはなるが、近年の予選での彼の姿と、最高位戴冠にはギャップもあるかも
しれない。
人様にお見せする様な物になる自信は全く無いが、お祝いの意味で、彼自身のことや彼と最強戦(と少し私)の深い歴史を書かせていただくことにした。
■「最強戦の申し子」の誕生
*最初に断っておきますが、昔の話に関して正確な裏取りをしている訳ではないです。 鈴木優最高位には話を聞きましたが、当然はっきりしていない所もあったし、私も同様です。 もちろん有料記事になることは伺っているので、精一杯尽くすことは保証します。
いきなりで恐縮だが、一体いつその異名が付いたのか?は、はっきりはしない。
「申し子」が生まれる経緯をお伝えするために、まずは当時の予選システムを紹介する。
【プロ選抜大会勝ち上がり者8名】荒正義、前原雄大、張敏賢、尾崎公太、吉田基成、風間杜夫、二階堂亜樹、成瀬朱美、和田聡子
【著名人4名】風間杜夫、先崎学、福本伸行、片山まさゆき
【アマチュア12名】
本戦は24名出場、その内アマが12名入るのが現在と大きく違う点である。
店舗大会の規模は、最強戦HPの記録によると、全国50店舗・2200人参加とあった。
門戸が広かったとはいえ、12/2200=約0.55%の通過率。
まずは店舗予選を回るが叶わない、のが当たり前で、本戦に出場するとなれば多大なステータスを獲得できた。
【前年もファイナルに行っていた】
その様な状況だったが、彼の本戦初出場はこの時では無かった。 その前年の2007年、同様のシステムだった「第18期最強戦」にも「読者代表」として出場していたのである。 2007年の読者代表は、東4・西4の8名。参加総人数は1800名。
こちらは通過率0.44%
その本戦では、予選最終戦(2008もそうだが、本戦は予選4回、決勝1回だったはず)を残し、断トツ首位の立場から、最後にラスとなり、次点の5位で涙を飲んだ。
この時のことは今でも良く覚えていると彼は言う。
〈2007年第18回麻雀最強戦〉読者大会から勝ち上がり、小島武夫・飯田正人・須田良規ら近代麻雀編集部推薦のプロ雀士らと戦った。
「ラスさえ引かなければ決勝、で最終戦を迎えたが、プレッシャーで押しつぶされてしまった。 弱気になって普通に打てず、早くからオリてばかり・・・一番やってはいけない麻雀を打ち、悔やみきれない思いをした。この経験から、最強位に対する思いが一層強くなった。絶対に獲ってやると」
そしてその翌年、2008最強戦一般予選を勝ち上がり、再び本戦出場の切符を手にした。
0.44%と0.55%を連続して通過し、2年連続の本戦出場ー
どんなに強い思いで臨んでも、1年に一度のチャンスで、すぐにリベンジの機会を得られる
様な舞台ではない。
これだけでも偉業だが、さらに2008年の本戦では決勝へと勝ち進み、オーラスでアガれば優勝という追いかけリーチを掛けて、悲願にあと一歩まで迫った。
この時に先制リーチを掛けていたのが私で、たまたま捲り合いを制して勝利し、彼の夢はあと一歩で叶わなかった。
この時に彼がどう思ったか、これまで聞いたことは無いし、今回も聞けなかった。 ただ単に照れくさいというか、気恥ずかしいからである・・・。
ともかく当時はネット媒体もほぼ無く、近代麻雀本誌で数ページの特集が組まれているのみ、当然優勝者中心の内容になる。最後まで優勝を争った2008の記事でも大きく取り上げられている訳では無いが、「読者大会を2年連続で勝ち上がった雀力と執念、しかも今年は決勝へ・・」と記述 されている。
長い歴史を持つ最強戦では、時折システム変更もされているが、「麻雀日本一を決める」というコンセプトは一貫している。
それを元に、当時は一般麻雀ファン(読者)VSプロ・著名人という構図で本戦が開催されていた。これは読者代表枠の多さに現れているだろう。
その一人であった彼が成し遂げた2007・2008最強戦での偉業は、当時の大会コンセプトをこれ以上ないほど体現したものであったし、それを表した「最強戦の申し子」は、これ以上ないほどの名コピーだと思う。
こうして彼は、著名プロや、読者代表を含む歴代優勝者を差し置いて、名実ともに「最強戦の申し子」となった。
【「申し子」になるまで 】
2008年の最強戦終了後に彼と話す機会があり、実は最高位戦に3年在籍していたという話を聞いた。その時彼は27歳、在籍したのは20-23の頃で、地元愛知県豊橋から上京もしていたという。
私も同時期に在籍していて、恐らくどこかで見かけたことはあったはずだが、認識はしていなかった。
この話を聞いて、非常に腑に落ちたのをよく覚えている。 前年にも活躍したとはいえ、背筋をピンと伸ばした姿勢から繰り出される摸打と所作 は、プロでもそうはいないほど(そして自分よりも)美しいものだったし、何よりも落ち着いていた。
私の感覚ではあるが、その若さとは不似合いな強者の雰囲気を携えていたからである。
もう一つ強く印象に残っているのは、あと一歩で優勝が届かなかった直後の席で、彼は明るく、そして非常に礼儀正しく振る舞っていたことで、それから今まで、彼のことを悪く言う人に会ったことが無い。
彼の話に戻るが、高3で麻雀を覚えてのめり込むと、メンバーになり大学を辞め、より強い相手を求めてプロになったのだという。それほどに麻雀に情熱を注いでいた彼が、なぜ3年で辞めたのかは、地元で麻雀店を開くという、もう一つの夢のためであった。
「地元の愛知県豊橋市には当時も4人打ちのお店があまりなく、僕がフリーデビューをした際もそうでしたが、マナーも態度も悪く、店内もとても怖い雰囲気でした。
麻雀を好きになって勇気を出して行った人が、2回目も行きたくなるような場所では到底なかったことから、20の頃には地元でマナーのいい、学生さん向けの明るくて楽しいお店をやりたいという夢ができました」
彼は東京での3年間で、麻雀プロとしての夢と天秤を掛けながら、開業資金を貯めることを目標に必死で働いた。二十歳すぎの私を思い返すと、それだけでも頭が下がるが、彼は計画通りに資金を作ることに成功し、若干24歳で「麻雀ばとるふぃ~るど」を開業する。
念願の開業は一方で、麻雀プロとしての夢を捨てることを意味する。東京近郊であればともかく、開業したばかりで豊橋から東京に通って両立させるのは、不可能だからだ。
若くして人生の転機となる決断をした彼は、その麻雀への情熱を、年に一度の最強戦予選にぶつけた。
その蓄積が、申し子を誕生させたのであった。
■新たな出会いと挑戦
最強戦の申し子となった彼に、その後の人生に大きく影響を及ぼす出会いが待っていた。 プロ連盟の新人だった魚谷侑未プロが、最強戦での活躍に触発され、彼に教えを請うために、地元の新潟から豊橋まで移り住んできたのだ。
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