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昭和のgifted - 91 常識を疑うために大切なこと

前回のお話しはこちら

一般論を疑うために大切なことは

「常識は疑え」
「疑ったのであればその思想が一般的には受け入れられないものと自認しろ」
「一般的に受け入れられないと自認できたら一般的に受け入れてもらうための言語化能力を鍛えろ」
「言語化できたならその思想をより広くつたえるために“力”をつけるべき」
「“力”を欲するのであれば理性的であれ」

積極的分離の段階で受け入れられる内容は変わると思うが、今のところ私の中でこの5つの考え方と順番が非常に大切だと思う。

自身の思想が他者に受け入れられにくいものと自認できたのであれば、その上で勝手に“世界”を知ったつもりになって「この自認は到底世界に受け入れられないもの」だと決めつけて悲観するのも、例え“世界”に受け入れられなくとも“自分が自分であるために”意義を提唱するのも自身の選択で、今の時代はその選択を選べる自由がある。

それに付随して世界の不条理=大多数の人が疑問に思っていないことに意義を唱えること自体は自由だが、自身が受け入れてもらえないことで少しでも絶望を感じたのであればその絶望を他者に押し付けることはただただ世界を混沌にすることだと、落ち着いて考えれば想像はできるはずなのにそうした発想ができないのは環境やそれまでに植え付けられた“常識”に己が一番囚われているからだ。

本当にギフテッドの性質を持つ人、かもしれない人たちって共感性の高さからか他者との思想の溝とか自分が思う“正しさ”とのズレとかで世界にひとりぼっちみたいな絶望を感じることがあるんだと言う。

ただギフテッドでなくとも“生きづらさ”を感じている全ての人たちにも参考にしてもらえる内容だと思う。

かく言う私も世界に絶望していたことがある。

私には相手の気持が理解ができるのに、なぜ他者は理解を示してくれないのか。

哲学的なことや思想的なことの場合でも世界の真理はなんなんだ、とぐるぐる考えては子供の頃に植え付けられた価値観からくる“自分の方が間違っている”という自己否定に帰着して勝手に絶望を繰り返してた。

「常識を疑え」

という言葉だけが一人歩きしているが、本当に常識を疑ったところでその常識を打開することができる力がなければただ絶望して終わるだけ。

これが積極的分離のどこかしらの境界に存在するものかはわからないけれど、そうした「常識を疑った上で絶望しない」ためには力が必要だと私は思う。

「こんなにも世の中の不条理を嘆いても世界は変わらない…」

私もそう思っていた。けどそりゃ嘆いてるだけで世界が変わるわけないんだよ。

嘆くだけで世界が変わればなんの努力もせずに嘆くだけの人が溢れるバブみワールドというそれはそれで地獄みたいな世界にならんか?

今となってはそう思えるけど絶望の淵をうろうろしていた頃の私は、言いたいことを言ったところで例えば境遇や環境の不運な“可哀想な人”に比べればマシなどの上滑りするような“一般論的ご意見”に「一般論的にはそうかもしれない、ということも踏まえた上で私の場合は一般論のそれとディティールが違う」んだけど…と思いつつ、理解されないのは私の考えが間違っているからだと自分を責めていた。

そうしているうちにこの悲しみや苦しみ、絶望感というものを深度はどうであれ“普通の人”も持ち合わせているのかもしれないと思い、自分意外の人の考えを受け入れるようになった。

様々な人と関わり、多くの人の気持ちを聞くうちに感謝されることが増えたものの、それでも私自身を満たしてもらえることはなかった。

それは私のこれまでの経験や思考が、行動を起こすことによって常に成長し続けているからで、行動を起こす以前ですら受け入れてもらえることが少なかったことを踏まえれば私が満たされることがないのは当然のことである。

行動を起こした私は、このことを「他者への諦めがついた」と感じていたこともあるが、今は「自分自身を受け入れることができた」からだと感じている。

まだ「諦め」と感じていた私は他者を受入れる努力をしていたものの、どれだけ親身に話を聞いても自分勝手で傍若無人な人とも出会い、“一般論”で回っている世界は常識的規範と正しくなくとも大多数の利となる内容を結果づけるために幾度も私に不条理を押し付けてきた。

そういうことを繰り返し、最終的に私はブチ切れた。

自己の利を優先する人間の意見が通る背景は、それが盲目的な理由だったり、生存本能的な問題で多数派をとりがちと理解した上で「こんなにもいいみんな自分勝手を通すのであれば私だって自分勝手を通しても構わない」と。

どうして個のことしか考えていない人間のために全体のことを考えている私の考えが許されないのか。

納得いかないね!!!

そして私はnoteにぶち撒けた。

もういいじゃん。私が文句言ったところで世界は変わらずとも私のストレス発散に繋がり溜飲は下がる。

そうしたらどうだろう。新たな行動を起こした私にまた新しい世界が開けた。

リアルの世界でも全ては受け入れてもらえなくとも私の中のたくさんのパーツを、それぞれ受け入れてくれる人が増え、私のエネルギーが高すぎて誰かひとりに受け入れてもらうのは難しいけれど、分散して多くの人に少しずつ受け入れてもらうことで私は私を褒めることができるようになった。

人によって話す内容が変わるのは悪いことだと思っていたが、自分のために“言わなくてもいいこと”を相手によって選ぶ柔軟さを身につけた。

そうして今も私は成長を続け、ようやく自分の使命みたいなものを自覚し、力をつけるためにやるべきことを牛歩ではあるが思考し、動き出している。

これまでの環境や境遇がもっとこうであればと嘆いたこともある。ただ、これまでの環境や境遇がそうであったから私はここまでこれたと今は思える。

誰しもが想像し得ない悲しみや苦しみは、それを感じる感受性があるからこそ、そこまでの深度で感じない人たちに感動を与える。

その感動は新たな“世界の常識”をつくるかもしれないし、よりよい未来の礎になるかもしれない。

常識を疑い、それでも諦めずにに戦ってきた先人たちのお陰で私たちは今、「常識に意義を唱えても処刑されなくてすむ」時代に生きている。

いつだって革命を起こすのは考え、その考えの伝え方を模索し、仲間を集め、力をたくわえて行動に移してきた。

時としてその力ある行動は暴力や戦争というかたちを取らざるを得なかった時代を経て、ゆるやかに穏やかな革命の実現が可能なところまで人類を成長させてくれた。

技術発展のお陰で寿命も伸びたし、妄想を実行する手段も豊富になったし、そのお陰で“最初の思いつき”を実現するまでの時間も短くなった。

嘆いてる時間がもったいないとは思わないか?

私はこれまで考えなくても良いことに足をとられてきたけれど、そのお陰で得た知識と、そこから導き出したやるべきことは、そろそろ私一人の手で実行できる範疇を超えてきてる。

正しく人に頼り、その頼らせてくれた人たちに何かしらのものを還元するために私は立ち上がろうとしている。

現実的に考えてまずは借金返済と資本金の獲得だな!

おい、このnoteに共感してくれた大富豪がいたら連絡してくれ。

軌道に乗るまでは報酬は払えないけど仲間も探している。

世界はこんなもの

その常識も疑っていい。疑ったのなら変えて行こうぜ。

そうして戦った先の未来に、どんな世界が広がるのかはわからないし、ただただこれだけ考えた先に人類がどこを目指していくのかはわからない。

わからないことに時間を割くくらいならとりあえず今をなんとかすべきだなと自分の思考回路と戦う今日この頃である。

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