夢の形
夢は形を変える。
ある人がテレビで言っていた。 「最初に思い描いていた夢と、今の夢は違う。でもそれは、全力で挑戦して、挑戦して、諦めたその先にあった、新しい夢の形だ。」
僕は小さい頃から、物語を持っていた。当たり前のように、それがそのまま夢となった。
僕は僕の夢に、とても助けられた。人と接することが苦手なことも、世間一般のあらゆる平均と常識から逸脱することも、大切な人に優しくいられないことからさえも、全て夢が守ってくれた。必死で努力さえすれば、将来の成功から優越感を前借りすることもできた。
僕の夢は最初の頃からだいぶ様変わりして、もう原型を留めていない。
そして夢というものは、その姿を変えるたびに、サイズも一回りずつ、小さくなるように思う。
だから最初、いつの間にか夢の存在を忘れていた僕は、それがまさか夢とは思わず、そして大事なことだとも思わず、日々を過ごしていた。
僕の日常は、それなりに大変だったのだ。
僕はずっと、不貞腐れないように必死だった。
最初の夢が叶わず、その次もその次の次も叶わず、努力することすら難しくなり、だんだんと「こんなはずじゃなかった人生」を歩むことを理解してから、僕はなにより、環境や他人を責めることを恐れた。なりたくなかった人間のその行為に、こんなにも魅力を感じることが、悔しかった。
仕事は嫌いだった。どんな仕事でも嫌いだった。何もかもが好きになれなかった。
それでも、頑張った。ここでやっていくしかないのだと、人よりも真剣にやった。少なくとも、やろうとはした。
資格もとった。そんな姿勢を評価してもらったりもした。庇ってくれる先輩にも、進んで仕事を教えてくれる上司にも出会った。
そういう時をまるで見計らったかのように、「こんなはずじゃなかった」という言葉は、僕の背後から忍び寄ってくる。
そんな言葉を振り払うために、僕はもっと努力した。成功した人間を探しては貶めるような人生は絶対に、絶対に嫌だった。
そんな日常を送っているある日、パソコンのフォルダの整理をしていると、夢の残骸に出会った。ただの、膨大な文字の羅列だ。
何の感情もなく、目で追った。
そして、止まらなくなった。
好きだった。大好きだった。
夢はまだ、そこにあった。姿を変え、しかし熱を持ち、確かに僕の胸のうちにいた。
実際、それは何度も見かけたことがあった。あまりにも小さくて汚いから、ゴミかと思っていた。
小説を本にするのは、もう無理だ。
それなら———。
初めて夢を抱いたのは、いつだったろうか。
思えば幼い頃から、僕らの夢に関する教育は何とも大雑把なものだった。大概はどんな夢の話であっても、いつだってお決まりの悪者とお決まりの否定のセリフが出てきて、壮大な勇気と潔癖な希望でもって徹底的に叩きのめすのが常だった。
「お前じゃ無理だ」
「やるだけ無駄」
こういった言葉たちを、僕たちは悪者として扱った。出会ったこともないうちから、大嫌いだった。見かけたらタダじゃおかないつもりで、上京したくらいだ。
結局、そんな奴らとは一度も会わなかった。
現実の問題は、想像とはかけ離れていた。
敵は夢を追うことをバカにする人たち、ではない。叶えるための努力すら投げ出す自分がいて、叶う保証がなければ挑戦すら拒む自分がいて、欲望がために夢の魅力すら忘れる自分がいたのだ。続けることの意味を考えたり、体調の良し悪しに過剰にこだわったりと、「言い訳」がいつでもわかりやすく「言い訳」の顔をしているわけじゃないことも、同じ頃に知った。「言い訳」はいつだって、説得されたい人に寄り添い、素敵な形になるのだった。僕はいつだって説得されたかった。
自分に負けるといつも、胸の内側を汚れた爪でかきむしられるような痛みが走る。いくら負け続けても、自分への評価を下方修正しても、この痛みは消えることはなかった。
正直、もう一度あれをやるのかと思うと、しんどい。
夢が変わらないでいられる唯一の方法は、挑戦しなことだ。諦めたふりをしている間は、夢はそのままの形で保存される。したければ、永久保存すればいい。そうしている人も、大勢いる。居酒屋や晩酌で重宝するだろうし、自尊心を支えるのにもきっと役立つはずだ。
でも、もう見つけてしまった。また、期待してしまった。
どうするかの選択権は、僕が持っている。一つしかない選択肢でも、それを掴むかどうかは、僕次第だ。いつだって、泣き出したくなるくらいに、僕次第なのだ。
過去の自分の物語に触れたあの日、夢はついに手の中に収まるサイズになってしまっていた。
“誰か一人にでも、この物語が届けばいい”
こんな野望、昔の僕だったら嘘っぱちの戯言だと、唾をかけていただろう。そんなことを言うやつがいたなら、目標への持論や哲学を広げる、都合のいいキャンパスに使ったかもしれない。
でも僕はもう、昔の僕ではない。あの夢の周りの不純物までも全てエネルギーに変え、ただ真っ直ぐに速さだけを追い求めて突き進んでいた彼はもういない。ここにいるのは、あらゆるものをかき集め、時にはでっち上げないと一歩も前に進めない、衰えた中年だ。人生最後の日に目を凝らし、見据え、自分の心に耳を澄ます以外、道標はない。
僕も夢と同様に、ちっぽけになったのだ。
膝に手をつくぐらいため息は止まらないが、しかし案外、収まりはいい。
もうこの夢は、盾にも傘にもならない。松葉杖の代わりにすらならない。保存しておいたところで、もうなんの役にも立ちはしない。
それでいい。
そもそも、夢にそんな用途はない。
夢に守ってもらうのではない。
夢のために、這いずり回るのだ。
どこかの誰かに。誰か一人に。いるかどうかだけでも。
僕は今ここで、そんな夢を胸に、生きている。