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脱ジャッジメントとしてのメタ・バース

メタ・バースの良さがよく分からない。仮想世界の自分自身であるアバターとかも感情移入するには画質が荒いなとか思ってしまう笑

何かの番組で、メタ・バースはディズニーランドだと思えば良いと言っていて、あれこそ仮想現実を楽しむ施設と言っていて、それ以来そういうことかあ!と腑に落ちた気がしている。

まだディズニーランド行ったことないので、そのうち確かめないとね笑

つまり、ディズニーランドに行ったことある人はメタ・バースを受け入れやすいし、ある程度、体験済みとも言えるのかも知れない。

脱現実、仮想世界を生きるということは、ひょっとすると今後のライフスタイルのひとつの柱になるのでしょう。

そのことの是非をいま述べているわけではなくて、むしろその逆です。それはそれ、これはこれ。メタバースにも大いなる恩恵とか壮大なビジョンがあって、そのリスクとリターンの両方について想像することができます。

想像力を使って是非の判定を急ごうとする。

判定を急いで自分が正しい側であろうとする。それは間違った側を批判するモチベーションだったりします。ですが、正しいことと間違ったことの判定ってそんなに簡単だったり、

急がないといけないのでしょうか?

急ぐのは勝手にやったら良いことかも知れませんが、他者を急がせよう、急かせるのは威圧でありプレッシャーであることが多い。

結果結果と言うけれど、そんなに焦って結果を求めて出てきた結果はほんとうに正しいの?それにその結果は誰のため?

もちろん、結果が大切ということは分かってます。結果を直ちに出すことが間違っているという主張ではありません。

これは脱ジャッジメントという、ひとつの視野、価値観軸の提案です。

マスクやワクチンが分かりやすいなと思うのですが、する人としない人と、自分がどちらであれどちらが正しくてどちらが間違ってるとか、どちらが賢くてどちらが愚かだとか、その判定は未だ出ていないし、出ていたとして互いが憎み合うことは必要なのでしょうか?

いろいろな事情や価値観の違いとか、様々な背景があって異なるプロセスを辿ったというだけではないのかなと思います。

互いに労りあっても不思議ではないのに、と思ったりします。

SNSやテレビのワイドショーなどで煽られる対立構造があるのは事実です。それは目を向ければ確認できるのなら、その対立に対して融和を働きかけるのが本来の政治の役割でしょう。それをやらないことに僕などは政治の意思を感じます。分断を放置しないで欲しい。

そのためのひとつの視点、価値観軸として「判定を焦らない」脱ジャッジメントというスローガンを記しておこうと思いました。

こんなスローガンは目新しいものでも何でもなく、使い古された言い回しです。使えるものを再利用しているだけです。

世界全体を見渡すとチラホラ見えるのが分断です。価値観の違いで棲み分けるのが多様性なら、分断とは互いの敵対意識を含んでいると思います。

これ以上そのことを放置してるわけにはいけないように思い、これを記しそのように活動したり、そのような視点で生活を送ろうと思います。

#脱価値観の固定
#脱ジャッジメント
#多様性
#近未来が来た
#面白がりたいキモチ
#絡みづらいやつ笑
#間もなく居なくなるのでお許しを

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