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19 歳

 あやふやな思い出をそのままに綴ります。だからフィクションとして読んでいただけたらと思います。スケールの大きなことをしたいと漠然と思い描き、勉強、サークル、部活、バイトを精力的にこなしていた。憧れていた大学生活、大学に入れずに短大だったけれど、私の求める世界がそこに広がっていた。入学させてくれた親には本当に感謝している。私は親の庇護のもと学生生活を謳歌していた。成績にはムラがあった。秀から可までいろいろバラバラ並んでいる。自分の気分で取り組んでいたようだ。どうしても相性が合わない学科は可をもらっていた。それは先生との相性で、同じ美術でも教授によって秀と可をもらうような学生だった。それについてはほとんどあきらめの境地だった。成績については担任も、親も自分自身もそんなに気に留めてなかった印象だ。もう少し誠実でもよかった気がするが、あの頃の私には精一杯の取り組み方だった。勉強は幼稚園教諭の資格を取るための学科で、サークルはバイト先で出会った先輩の入っていたパラグライダーサークル、部活は美術部、バイトはいなげやのグロッサリーだった。今から思うと、配分が我ながら良かったと思う。週5の短大、週4のバイト、終末のサークル活動。学生に休みなんかいらない。疲れなんて知らない。ありあまるエネルギーをやりたいことに注いでいた。あの頃は生き方が雑で、ムラだらけで、不安定だった気がする。もてあますエネルギーの使い方がよくわかっていなかった。すごくもがいていた。苦しかった。それは他者に関係するものではなくすべては内面の問題だった。あの心の暗闇はなんだったのか、今でもわからない。もう少し目の前のことに全力を注げば解決できていた気がする。自分からぬかるみに入り、そこで扉を閉じて悩んでいたように思う。周りは親切で私は今よりももっと明るかった。今は、きゃぴきゃぴしなくなったが、あの時代ほど苦しんだり、閉じこもったりしていない。中庸の場所にいると思う。今あの頃の私に言いたい言葉があるとすれば「人生の華は40代だと思う。」と言うこと。あんなに苦しむ必要なんてどこにもなかった。そう言ってあげたい。8月、夏休み、家で折り紙を折る宿題をしていた。徹夜で。宿題は一枚一枚折り方を最初から途中、出来上がりまでを本で示された通りに折り、スクラップブックに張り付けて行くというもの。始めたら、最後まで一気にやり遂げたい作業だ。親にお咎めもされずに電気も付けっぱなしで一晩で宿題を仕上げた。朝から2泊3日で那須の宿泊研修に行くというのに。早朝の5時。兄が徹夜でバイトから帰ってきた。折り紙に目をやると、水色の折り紙で、箱を折って私に渡した。私は気にも留めずにその箱を瓶の中に入れた。そして私が出かけるころ、兄は部屋でぐっすりと眠っていた。「やれやれ。」学生の身分なのに、深夜バイトにあけくれてしまっている兄には少し問題があるのではと思っていた。私は熟睡している兄を見届け、そのまま家を出て集合場所に向かった。8月24日のことだ。

 宿泊研修は詳しいことは忘れてしまった。キャンプファイヤーやハイキングがあった気がする。8月25日ハイキングの途中で私に連絡が入った。あの時一人で自宅に帰ったけれど、どうやって帰ったのかも今では思い出せない。早朝バイク事故で兄は逝った。

 家に着くと、親戚が大勢集まっていた。高齢の祖父もいた。兄は居間でよこたわっていた。白い布が覆われていた。

 次の日葬儀屋さんが棺に入れた時、兄はもうここには居ないのだと感じた。眠りこけていた時の、あのしなやかな身体とは全く違うぎこちない肉体の不自然さに耐えられなかった。

 精力的に生きるのを忘れてしまった。あの時、兄を失ったからだとは今でも思っていない。大学にも行かず、バイトも辞め、サークルも休んだ。私は短大ではなく大学に進学したいと思っていて、それがうまくいかなくて思い悩んでいた。その時と兄の死が重なっていた。

 久しぶりに大学に出て行った時、音楽の授業で歌を歌った。クラスメイト全員で「大きな古時計」私も一緒に歌った。でも途中から嗚咽に変わってしまった。あの時なにも言えなかったけれど、もう一度再会したら「ありがとう」と伝えようと思う。クラスメイトが「悲しい?」と聞き、その時初めて自分が兄を失ってから日にちを数えていたことに気づいた。自分のことがよくわからない感じだった。

 卒業の年、いよいよ進路を考えなくてはいけなくなった。休みがちだった学生生活だったが単位をもらえたのだろうか、卒業できることになっていた。そのまま卒業して進路を決めなければ私は廃人になる。その末恐ろしさから就職活動を始めた。クラスメイトはほとんどが進路が決まっていて、募集している幼稚園も残りわずかの状態。受けにいっても落ちるの繰り返しだった。

 「あなた、水泳できる?」いちるの光だった。「はい、小学校でバイトした経験があります。」見学に行き、心底惚れ込んでしまった。私は120%の力で試験を受けた。そして奇跡的に採用された。

 あの頃の私に言いたいこと、「命を預かる仕事をもっと誠実に取り組んだほうがいい。」私は今でも自問している。誠実に生きているのか。夢中で一生懸命に生きているけれど、どこか誠実さが欠けているところがあるのではないか。それは私の気質の問題だと思う。

 誠実に生きているか、という問題を大切にしてこなかったように思う。それは自分自身を大切にしていないということにつながっている。今でもその問題は解決していない。深いところで、理解できていないのではないかと思う。

 120%で受かったけれど、それ以上の力は出せなかった。求められる力と持っている力のギャップが埋まらなかった。無い能力は誠実さでもってカバーすればよかったのに、その知恵が無かった。「誠実に生きているか。」何度も自問している。

 悲しかったけれど、その幼稚園は一年で契約を打ち切りされた。今思うのは園長先生は正しかったと思う。子どもたちには申し訳ない思いもあったし、まだまだがんばりたいことも伝えたが、あまりにも私の方に問題があった。

 ありがたいことに地元の幼稚園に再就職がが決まった。私は再び年少の担任になった。今度は生まれ変わったつもりで取り組み、仕事もプライベートも順調だった気がする。

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